第二章 「喪失」

5 話「熱砂に刻まれし標(しるべ)」

記憶の底、闇の中。

少年は“自分の名”を呼ぶことができなかった。

誰かの声が問いかける。「――お前の“名”は?」

答えられず、世界は白く、静かに歪んでいく。

そのとき、どこかで“思想”――イデアのような、剣より鋭い意志――が胸に入り込んだ。

名を奪われたまま、彼は生き延びる。

“名を探しながら歩く”しかできなかった――。


【あらすじ】


焦土と化した世界。

人々は“名”を奪われ、正義は疑われ、ただ“問い”だけが残された。

各国の若き戦士たちは、謎めいた“名もなき印”の真相を探るため、

一時的な共闘関係を結び、この終わりなき夜を歩き続ける――


そんな彼らの前に、新たな“印”が現れる。

消えた仲間、失われていく記憶。

忘却の砂漠で、“問い”の先に待つものは、さらなる混迷か、それとも……。

いま、運命の歯車が静かに動き出す。


◆ ◆ ◆


 夜の砂漠は、不気味なほど静かだった。

 昼間の熱が去り、冷たい風だけが廃都アザールを吹き抜けていく。朽ちた石壁、砂に埋もれた瓦礫。そこに立つ、白い髪の少年の姿が、月明かりの中でわずかに揺れていた。


 緋凪(ひなぎ)ユウ。

 彼の髪は夜の銀よりも白く、砂埃まじりの風にさらされて静かに踊っている。黒いコートは埃と戦いの痕でくすみ、肩には一日の疲れが滲んでいた。


 ユウはゆっくりと屈み、足元の砂を払う。焼けた石畳の上に、奇妙な丸い“焼印”がうっすらと浮かんでいた。


 (まただ……“O”の印)


 最近、この印はどこに行っても目にする。町が焼け落ちた跡、瓦礫に沈む廃墟、かつて栄華を誇った要塞の門。戦場に残るのは、いつもこの謎めいた印だけだった。


 彼はそっと手を伸ばし、指で印をなぞった。

 ざらついた感触が、皮膚の奥まで染み込む。


 「また見つけたか?」


 背後から声がした。

 振り返ると、ブランド・ストーンがいた。巨躯に分厚いジャケット、無骨なライフルを肩にかけ、どこか疲れた様子でユウの横に腰を下ろす。


 「グレイブの仕業にしちゃ、ずいぶん回りくどい気がするぜ。アイツのやり方はもっと“秩序”ってやつを押しつける感じだったろ」


 ブランドは“O”の印を指先でなぞる。その指は太いが、動きには妙な慎重さがあった。


 「奴の軍が動いた跡に、この印が増えてる。“ここは支配下だ”って主張か、それとも誰かへの警告か……」


 「どっちにせよ、気味が悪い」


 ユウは小さく息を吐いた。

 (本当に、グレイブとやらの仕業なんだろうか……)


 彼の脳裏には、あの男の冷徹な横顔が浮かぶ。世界秩序を守る“正義”の使徒。だが、その正義が今、何を指しているのか、ユウにはもう分からなかった。


 足音が近づく。リュナ・セイが、崩れかけた階段から静かに姿を現す。

 「調査班の三人が……消えたわ。足跡も、血痕もない。ただ——」


 彼女は無表情のまま足元を指した。

 そこにも、同じ“O”の印。


 「まるで、初めから“いなかった”みたい」


 ブランドが顔をしかめる。「……記録端末も反応しなかった。痕跡が消えるなんて、ありえねぇよ」


 「“名”を奪われたのよ」


 リュナは呟く。その声はわずかに震えていた。

 「この印の現場にいた人間は、“記憶”や“存在”ごと消される。まるで“名を問うこと”そのものが、何かの……」


 「——禁忌(きんき)だ」


 低い声が割り込んだ。

 セラフィム・ミール。白銀の髪に夜風を受け、

 長い外套の裾がささやく。

「ここは“正義”が及ばぬ地だ。だが……グレイブでさえ、この標(しるべ)を“完全には”制御できていない」


ブランドが唸る。

「……どういう意味だ?グレイブが、ここの掃討に来てたはずだろ?」


リュナはタブレット端末を見つめる。画面には“O”の印が地図のように点在している。

「グレイブの軍勢は、確かに“O”の印を使ってる。でも、マップを見ると、“特定の区画”だけは避けて動いているの。あそこだけは――何か、違う」


ブランドが眉をひそめる。

「グレイブが自分で仕掛けた罠に

 近づけないってことか?」


リュナは静かに首を振る。

「違う。“O”の印は、

グレイブたちが意図して撒いてる場所と、

**誰にも理由のわからない“異常な印”**が混じってるの。グレイブの軍も、

 その異常域だけは――本能的に避けてるみたい」


ユウは自分でも驚くほど小さな声で呟いた。

「じゃあ……誰がこの印を?」


セラフィムが静かに口を開く。

「“名”は存在そのもの。問えば契約が生まれ、

奪えば全てが消える……でも、この印は“契約”すら拒む。……

 “この世界”の本当のルール、かもしれない」


 「だったら、“正義”なんて……何の意味がある?」


 ユウの声は、夜風に溶けるほど小さかった。

 「誰かの正義が、誰かの“名”を消していく。そんな世界に、俺たちはどうやって生きればいいんだ?」


 沈黙。

 それぞれの胸に、さまざまな“過去”や“誇り”がよぎる。


 やがてブランドが立ち上がる。「答えを探すしかねぇよ。俺たちはまだ、生きてる」


 「……そうね」


 リュナが珍しく小さく微笑む。その表情はすぐに消えた。


 ユウはゆっくりと立ち上がる。

 「この印の正体を突き止める。俺たちの“正義”を、ここで終わらせないために」


 「明日にはまた新しい戦場が待ってる」


 ブランドが背中を叩く。リュナも、セラフィムも、それぞれの思いを胸に夜の廃墟を歩き出す。


 だが、誰も気づいていなかった。


 瓦礫の上、月明かりの中で、ひとつの小さな影が彼らをじっと見下ろしていることを——

 その影は、誰にも知られぬ“名を持たぬ者”の歌を、かすかに口ずさんでいた。


 夜風が強くなり、白髪の少年の横顔を優しくなでた。

 ユウは一度だけ、夜空を見上げる。


 星は雲に隠れ、月も淡く霞んでいた。

 けれど、彼の心には、消えかけた“誇り”の灯が確かに残っていた。


 (——この戦いの果てに、俺の“名”は何に変わるのだろうか)


 問いは、答えないまま夜に溶けていった。


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