III. Departure
2階の会議室が空いていたため、フレデリックとリリスはそこで話すことにした。
二人は木製の長卓で向かい合って座っており、リリスは卓上で指を組んで前に傾いていた。口を開くと同時に、彼女は小さく微笑みながら首を傾げた。
「それで…サンダーボルトさんが、ボクを『叡智の旅』に連れていってくれるんですよね?」
「そうだ」
フレデリックは床を覆う灰色のカーペットから右足を上げ、左足の上に乗せて組み合わせた。
「明日の朝までに、しっかりと予定を考えておく。と言っても、大体はもう決まっているがな」
「そうなんですか?」
「全ての『叡智の旅』は、大方同じ経路を辿っている。ベロス、ハヴォール、コリッセルという順番が多いな。過去の手本通りにいくのが一番無難だろう」
「なるほど」
リリスはそう言って椅子にもたれかかり、足を床の真上でぶらぶらさせた。
フレデリックは正直、彼女の赤く腫れ上がった頬の方が気になっていた。しばらくは跡が残りそうだ。だが、リリス本人が大丈夫だと言ったため、あまり余計な世話をかけたくはなかった。ブレイズがなぜあそこまで怒っていたのかも聞かないことにした。リリスにとっては、話したくないことかもしれない。
「出発はいつですか?」
「明日の朝8時だ」
「わかりました。それまでに準備しておきますね」
リリスは立ち上がって扉の方へ歩き始めたが、退室する前に、もう一度フレデリックの方を向いた。
「あ、さっきはありがとうございました。あなたが来てくれなかったら、ビンタだけでは済まなかったと思います」
リリスは感謝のこもった笑顔でそう言った。しかし、その笑みもまた空っぽだった。フレデリックには理解できないような、心の空虚を表していた。
「礼には及ばない。私が正しいと思ったことをしたまでだ」
いつもの冷静な表情でそう返し、フレデリックも立ち上がった。
「ふふっ…サンダーボルトさんって、見た目より謙虚な人なんですね」
その時、フレデリックは感じ取った。誘惑するような口調、声色。上目遣いを含んだ甘い眼差し。まるで獲物を捕らえようとする蜘蛛のように、その魅力で相手を罠にかけていく。そういえば、先ほど彼女が取っていた前傾の姿勢や、首を傾げる仕草からも、似たような意図を感じ取れる。
「では、ボクはこれで。明日から数日間、よろしくお願いしますね」
「ああ…こちらこそ、よろしく頼む」
そしてリリスは部屋を出た。フレデリックは数秒間、じっと佇み、深く考えた。これから先、この異端児とどう接していけばいいのだろう、と。
「気をつけろよ。ありゃ絶対お前のこと誘ってるぜ」
ティンカー・ベルは耳飾りの内側から警告した。
「…わかっている」
フレデリックはため息をつき、心の準備をしながら、扉の方へ向かった。
———
「見てください」
白髪の彼女は、頭上に広がる透き通った青空を指差した。
「空が晴れてます」
いつも通り、彼女の顔は滲んだ絵の具のようにぼやけていたが、その柔らかな声だけははっきりと聞こえた。しかし、じっと空を見上げていた彼女の声色は、再び口を開いた時、悲しみに満ちていた。
「ボク…時々思うんです。新しい自分に生まれ変われたら、って。記憶をリセットして、一からやり直したい。そうしたら…ようやく、誰かに愛してもらえるでしょうか」
———
「起きろよ、フレデリック!」
再びティンカー・ベルのうるさい声で目を覚ましたフレデリックの視界に、寝室の白い天井が入ってきた。
「お、やりぃ。今日は一回で起こせたぜ」
フレデリックはむくりと起き上がり、目を丸くしたまま、数秒間固まった。夢に出てきた女性の声を脳内で再生し、そしてリリスの声を思い出した。ほぼ完全に一致している気がする。これはおかしい。こんなことがあり得るはずがない。なぜ昨日まで会ってもいなかった人間が夢に出てくるのだ?
「フレデリック?フレデリック!おい、フレデリック!」
名前を呼ぶ度に、ティンカー・ベルの声が大きくなっていく。フレデリックはハッとし、ナイトテーブルに置いてあった耳飾りに視線をやった。
「無視すんじゃねえよ。目ぇ開けたまま寝ちまったのか?」
「私は魚ではない」
フレデリックはため息混じりにそう言って、ベッドから立ち上がった。クローゼットの方へ歩いていくと、古びた床がギシギシと音を立てた。
ここ二週間、ずっとリリスの夢を見ていたという証拠は十分にあるかもしれないが、顔がいつもぼやけていて断定ができないため、フレデリックはその考えを振り払った。そんなことはあり得ないのだ。絶対に。
「なあ、お前、今日からその『叡智の旅』ってやつに出るんだろ?」
ティンカー・ベルが確認するように尋ねてくる。
「ああ…長く忙しい旅になるだろう」
フレデリックは寝巻きを脱ぎ、いつもの服に着替えながら答えた。
「昨日も言ったが、あのコットン・ヘッドには気をつけた方がいいぜ。あいつはやばい。俺の長年の勘がそう言ってる。あ、お前があいつとヤりたいってんなら、話は別だが」
「くだらん戯言を抜かしている暇があったら、あの首なし遺体についての情報を集めて来い」
フレデリックが指をパチンと鳴らすと、耳飾りから青い光の粒が飛び出した。その小さな光が、ティンカー・ベルの本体である。
無理矢理外に放り出された彼は、うぉっ、という声を上げた。
「なんで俺が…どうせお前もそのうち調査するんだろ?」
「少し時間がかかりそうなんだ。これ以上犠牲者が出る前に、急いで調べ始めてほしい」
ティンカー・ベルはわざとらしく大きなため息をつき、窓の方へ飛んでいった。
「しょうがねえな…その代わり、シュークリーム奢れよな!」
そして彼は、まるで幽霊のようにガラスをすり抜け、外に出た。
その鬱陶しさにふぅ、と鼻から息を吐いたフレデリックは、着替えを再開し、旅の支度を続けた。
———
杖と同時に茶色い革のトランクを持ち歩き、両手が塞がった状態で、フレデリックは魔術協会本部へと向かった。
正門に通じる石の階段の上で、リリスが待っていた。昨日の皺だらけの白いシャツの上に紺色のウールコートを着て、裾が少し広がっている黒いズボンを履いており、茶色い革靴を素足で履いていた。
彼女はフレデリックに気づくと、コートのポケットから手を出して微笑んだ。
「おはようございます、サンダーボルトさん」
「おはよう」
そしてフレデリックは、リリスが完全に手ぶらだったことに気づいた。
「荷物は何も持ってきていないのか?」
「ええ。多分大丈夫だと思います」
リリスはそう言って階段を下り、フレデリックの目の前で立ち止まった。
「最初の目的地はどこですか?」
「ベロスだ。汽車に乗って、それから徒歩でオリバー・ウォーフェアの住居へ向かう」
「オリバー・ウォーフェア…彼も有名な魔術師ですよね。ベロスに住んでいるとは知りませんでした」
「私も昨日知ったばかりだ」
フレデリックは杖を持ち直し、建物から離れ始めた。
「行くぞ」
リリスがたっ、たっ、と後を追う。
そして二人は、町の境界近くにある鉄道駅へと向かった。時々立ち止まってぼーっとどこかを見つめるリリスを連れ回すのは大変だったが、なんとか人並みをかき分け、ベロス行きの列車に乗る。彼らが乗った車両の座席は殆ど対面式で、二人はずっと向かい合って座っていた。正直、また面倒な状況にならないかとフレデリックは心配したが、幸い、リリスは出発直後に眠りに落ちた。
彼女が目の前でスースーと眠っている間、フレデリックは真剣な顔で窓の外を見つめていた。これから、未知の旅が始まる。多くの魔術や陰謀が混ざり合う、波瀾万丈な旅が。そんな気がしてならないのだ。
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