第十一章 声なき者に、法の声を

第一節 女人もまた、仏となり得る


静かに月が上がり、竹林精舎に風が吹く。

焚き火のあかりが揺らめく中、釈尊は一人の訪問者を待っていた。

それは、かつて己を育ててくれた養母──摩訶波闍波提(マハープラジャーパティ)であった。


その日、彼女は髪を剃り、僧衣を身にまとい、足元に土のついた裸足のまま釈尊の前に現れた。


「世尊よ。女である我らにも、涅槃の門を開いてはいただけぬか」


弟子たちはざわめいた。

女が出家するなど、前例のないことだったからだ。


しかし釈尊は黙し、やがて火のゆらめきを見つめながら言った。


「この世には、すべて異なる業を背負い生まれ出る者たちがいる。

だが、空なる真理のもとには、性も階級も存在せぬ。

波羅蜜を修すれば、誰もが仏に至るであろう──」


摩訶波闍波提は、そこで初めて涙を流した。

その背後には、五百の女性たちが静かに跪いていた。

ここに比丘尼(女性出家者)教団が誕生する。


このエピソードは、後に「方等経」の中でしばしば語られることになる。

釈尊が差別や偏見を超えて説法を広げた姿として、長く語り継がれた。



第二節 智慧の眼を持つ者──舎利弗との対話


その夜、もうひとつの対話があった。

弟子の中でも特に智慧に秀でた舎利弗が、般若の教えについて問いを発したのだ。


「世尊、空とは実在せぬということでしょうか?

それとも、真に実在するものが空という名を持つのでしょうか?」


釈尊は、微笑みながら応じた。


「舎利弗よ、空とは無ではない。

それは“実体”の否定であり、“関係”の肯定である。

すべてのものは因縁によりて生じ、因縁によりて滅する。

これを五蘊に照らしてみるがよい」


──色・受・想・行・識。

この五つの要素が「我」という存在を構成しているにすぎない。


釈尊は、掌で砂をすくって見せた。


「この砂が“色”ならば、

そのざらつきを感じる“受”、

感じた印象が“想”、

感じた後に生まれる意志が“行”、

それを識別する心が“識”だ。

だが、これらは常ならぬ。だからこそ、空なのだ」


舎利弗は長く沈思し、そして深く合掌した。


「すべてのものが移ろうならば、我が智慧もまた、常ならぬ。

されど、その中で生まれる慈悲は、誰のためにも咲く──そういうことでしょうか?」


釈尊は、何も言わずにうなずいた。



第三節 父王の問い──王の道と仏の道


カピラヴァストゥの王宮に釈尊が戻った折、老いた父・浄飯王が語りかけた。


「そなたの教えは、もはや王国の法を超えておる。

この地にいた頃のそなたは、民の苦しみに手を差し伸べようとしていた。

今は、民の“心”そのものを救おうとしているのだな」


釈尊は、父の手を取りながら言った。


「父よ。王は国を治め、法は心を治めます。

心に苦しみがある限り、国もまた苦しむのです。

だからこそ私は、無明を破り、智慧の光を届けたい。

それが私の“王たる道”なのです」


浄飯王は、静かに頷いた。

そしてこう言った。


「ならばよい。

そなたが救わんとする民の中に、この老いた父も含まれているのなら──」


👸 仏教における「女性の成仏」問題とは?


古代インド社会において、女性はしばしば「解脱にふさわしくない存在」と見なされてきました。

その理由には、以下のような社会的・宗教的偏見が含まれています。

• 女性は生理や出産などの「不浄」な存在であるとされた

• 感情や欲望に流されやすく、修行に不向きと見なされた

• 婦人が成仏するには男性に生まれ変わることが前提とされる経典もあった


このような中で、釈尊が女性の出家と成仏をどのように認めていったのかを見ていきましょう。



🪷 1. 摩訶波闍波提(マハー・パジャーパティ)と女性出家の始まり


釈尊の養母である摩訶波闍波提は、女性初の出家者として知られています。

彼女は、五百人の女性と共に頭を剃り、裸足で釈尊のもとへ出家を願い出ました。


初め、釈尊は三度その願いを拒みました。しかし、阿難尊者の説得もあり、ついに認めます。


🔶 条件付きで出家を許可

• 「八敬法(はっきょうほう)」という厳しい戒律を女性に課しました

• 女性出家者(比丘尼)は、男性出家者(比丘)に常に従うことが定められました


これは単なる差別ではなく、当時の社会的混乱を避けるための「方便(スキーマ)」であるとする解釈もあります。



🪷 2. 成仏に対する疑念と転換:龍女成仏(法華経)


📖 法華経『提婆達多品』に登場する「龍女成仏」


龍王の八歳の娘──すなわち女性であり、しかも人間ではない「龍」が、

一瞬にして悟りを開き、仏となったと記されています。


「女人すら、即身のまま成仏できる」


✨ これは仏教における画期的な転換点です。


女性が、男性に生まれ変わることなく、この身このままで仏となることを示したこの説話は、

女性の成仏に対する最も明確な肯定であり、後の多くの宗派に多大な影響を与えました。



🪷 3. 日本仏教における女性観の変遷

• 鎌倉時代以前、女性は「穢れ」の存在として寺院への立ち入りも禁じられることがありました(女人結界)。

• 一方で『法華経』の影響を強く受けた日蓮宗や天台宗では、女人成仏の教義が強く主張されます。

• 親鸞の浄土真宗もまた、念仏一つで男女の別なく救済されると説き、女性の信仰を広く受け入れました。

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