1-2
一年先輩である小賀にくっついてトレーニングルームに入る。
本部のものほど広くはないが、マシンの数も種類もそこそこある。ここはSAKaU隊員なら無制限に利用できるので、午前のデスクワークがひと区切りついたところで早速使わせてもらうことにした。
小賀はどうも筋トレには一家言あるらしいのだが、
「朝起きたら、ああ今日は大臀筋をいじめたいな、みたいなときがあるだろ?」
「うーん」
「筋トレは筋肉との対話、己との対話だ。一レップごとに変化する筋肉に常に耳を傾け、そのときもっとも適切な負荷を」云々、話が長い。
まともに聞いていたら何もできないので、桂木は空いていたラットマシンに寄って器具をセットした。
ジバンを着用した状態でメニューをひと通りこなしてみたが、明確に違う。モバイルのトレーニング記録アプリで確認してみると、やはり、全体的にはっきり伸びていた。兵装開発室の自信は伊達ではなかった。
すごいな、と改めて感心する。
ジバンを着ていることが当たり前になると、仮眠をとるときでさえジバンを着っ放しになるという。ジバンはまさにSAKaUの〈第二の皮膚〉だ。
今のところまだ着たまま仮眠は無理だなと思いつつ。
トレーニングルームに隣接するシャワーブースで汗を流す。
更衣室の壁には「ジバンのみで支部内を歩き回ること禁止」という貼り紙があった。
ジバン一丁でうろうろすると一般職員から「見苦しい」とクレームが来るため、ということらしいが、言われなくても、こんな全身ぴったりしたスーツだけでそのへんをうろうろする気はない。が、鵜加井はジバン一丁でうろうろして何度か怒られているらしい。
そして小賀は、ジバンの上にハーフパンツだけを履いていた。
つい「服を着ないんですか?」と訊いてしまった。
「着てるだろ! ハーフパンツを」
「はい……」
さらに小賀はまっすぐな目で言った。
「筋肉はみんなに見てもらうことで育つからね」
「?」
「誰も何も言わないし、問題ないってことだよ」
言えないのでは?
と思ったが、黙っていた。あまり深掘りしたくない。
十一時半から職員食堂が開くので、小賀と共に向かう。
第六圏支部は本部と比べればだいぶ職員数が少ないものの、地方都市の郊外という立地のメリットで建物が大きいため、食堂も広々していた。それでも、昼時になると日勤職員が押し寄せ、そこそこ混雑する。
今はまだ十二時前なのでガラガラだ。
タッチパネル式の券売機は本部と同じだった。職員証で決済できる。
桂木は日替わり定食にした。今日はからあげ。
受け取りカウンターの向こうでてきぱき動いていた調理補助の女性は、桂木の顔を見るなり「あらっ、綺麗な目だ」と手を止めた。
よくある反応だ。桂木はなんとなく会釈した。
「あっ、ごめんなさいね。おばちゃんはなんでも口に出しちゃうから。新隊員さん? からあげ一個おまけしてあげる」
「え、ありがとうございます」
ラッキーだ。
適当なテーブルについてガツッと食べていると、鵜加井も来た。
鵜加井も日替わり定食だった。
「おまえ、からあげ一個多くね⁉」
めんどくさと思ったそのとき、食堂に颯爽と入ってきた者があった。
鵜加井はそちらに目を向けると、にやっと笑った。
「おっ、ユワノちゃんだ。かわいいね」
小賀が白けた顔で言う。「失礼ですよ」
小賀は己の筋肉以外のところでは常識人であった。
「つまらんこと言うなよなあ。まあな、美は見る者の目に宿るからな」
「はあ。でも、たしかに、食堂に来るのは珍しいですね」
岸ユワノ。
栗色の髪をシニヨンにした、人形のように端整な女である。
NAGIAなんかより高級ホテルのコンシェルジュデスクにいそうな雰囲気だ。
桂木は、第六圏支部の組織図を思い出しながら訊いた。
「作戦室長、でしたっけ」
「そう」と小賀が頷く。
「作戦室っていう部署、他の支部にもあるんですか? 本部にはなかったですけど」
「いい質問だなあ、新人ちゃん」
鵜加井は味噌汁を飲む手を止めて、桂木に箸の先を向けた。
「こんな話がある――作戦室に岸ユワノが送りこまれたのではない。作戦室という部署が岸ユワノひとりのためにわざわざ創設されたのだ、ってな」
「?」
「岸ユワノは、数年前、ウンブラ財団から直接いきなり送りこまれてきたんだ。作戦室もこのときできた。それまでは存在しなかった。おまけに、岸ユワノがウンブラ財団で何をしていたかも不明だ」
小賀が苦笑しつつ付け足す。「噂だよ、噂。真に受けないように」
しかし、無きにしも非ずな話ではある。
NAGIA職員になってもウンブラ財団はブラックボックスだった。
外から見ているだけは何をしているか全然わからないけれど、内に入ればなんとなくわかるのではないかと思っていた。しかしいざ内に入ってみても、わかったこともあるけれど、さらにわからなくなったことのほうが多いのだった。
そして、NAGIA職員のあいだには、ウンブラ財団がやっていることに深入りしてはならない、という不文律があった。
与えられた仕事にだけ集中しろ。
「作戦室は兵術局長直下で、岸ユワノは乙三等官だから、俺たちのボスのボス、即応部隊長と同列だ。でかい作戦のときには岸ユワノが指揮を執ることもある。実績もないのに妙に権力があるんだよな。勘繰るなってほうが無理だろ」
岸ユワノはスマートな足取りで、男女ふたりを、窓際のテーブルに案内していた。
NAGIAの制服を着ていないから、たぶん、来客だ。
お茶でも飲みながら話しましょうということになったのだろう。
「ちなみに、もうひとりのおねーさんは、宇野丙二等官。作戦室長補佐だ」
と鵜加井は続けた。
鵜加井は放っておいたらひとりでもずっとしゃべっている。
「宇野さんは、昔、本部で高い階級にいたエリートだったらしい。でも、なんか、でかい作戦で失敗して、ここに左遷されてきたんだと。俺も詳しくは知らないんだけど。今やユワノちゃんの忠実なお供だ。ユワノちゃんがいるところにはいつもいる」
桂木は、岸ユワノに付き従っている女性職員を、そっと盗み見た。
ひとつに束ねられた黒髪。しゃんと伸びた背筋。
タブレットを小脇に挟み、カップが載ったトレイを運んでいる。
顔の右半分がひどく爛れていた。
あれは火傷の跡だろうか。
かつて古い住宅街だったこの一帯は、どの家屋も一階の半ばくらいまでどっぷり水に浸っている。立ち腐れ、崩落してしまって、建物の姿を成していないものも多い。幅の狭い道路も、見える範囲はどこまでも冠水して川のようになっていた。
高度経済成長期あたりに敷設されたものの、〈煤〉による混乱でほとんど交換もされずにいた水道管が、耐用年数を超えて使用され続けて、限界を迎え、あちこちで破裂をくり返し、しかも修理されず放置された結果、深刻に浸水した一帯から人間がいなくなりゴーストタウンと化してしまう……というケースは全国各地で見られた。ほんの少し前まで、この日本でもインフラ整備が行き届かない時期があったのだ。
浸水地帯は無人だが、少し海抜が上がれば普通にひとが暮らす住宅街が広がる。通報と相談は、そのあたりの住民から寄せられた。最近このゴーストタウンでウラグが複数集まっている姿が目撃されるという。同様の内容が短期間のうちに数件寄せられたためSAKaU出動となった。
今回、白熊隊から四名が向かった。
白熊と小賀、時實と桂木、ふたり一組になって二手に分かれ捜索する。
桂木と時實は、家屋の塀と放置車両とのあいだに渡された橋の上を歩いていた。
橋と言っても、ちょっと厚めの木の板でしかない、頼りない代物だ。しかも、ところどころ腐りかけている。中ほどに至ると、ミシ、という不吉な音と共に微妙にたわむ――浸水してしまってからもここでしばらく生活する者がそれなりの数いたようで、橋はいたるところに架かっていた。道路の真ん中に橋脚のような構造体を置いて連結し、橋を延ばす工夫もされている。
歪んで亀裂まみれの家屋。蔓状の植物に覆い尽くされてなおまっすぐ立っている電柱。空気が抜けきってボロ雑巾みたいになっているゴムボートが、崩れかけた塀にへばりついていた。
一月の冷えきった水は意外なほど澄んでいて、覗きこめば、朽ちてヒビだらけのアスファルトの水底までが見通せる。さらに、周囲の建物から出た瓦礫や、繁茂する水草、堆積する滓も見える。そして、小さな魚の群れが気持ちよさそうに泳いでいくのも。
水深は深くても一メートルといったところだ。だが落ちたくはない。
風はなく、他に動くものもないので、〈煤〉は濃く滞っていた。
前を歩く時實が「あー」と間延びした声を出した。
「ジバン更新しろってお知らせが来た」
『ヘンな時期に更新ですね』と、別行動の小賀。
隊内通信で全員つながっているので、全然違う場所にいても問題なく会話できる。
「なんか、痩せたんだよな。ジバンがちょっとゆるくなった」
『おまえな、ちゃんと食べろって言ってるだろ』と、これは白熊。
「食べてるんですけどね」
そうかな、と思う。
こんな体力仕事のわりに、時實は少食のような気がする。
『管理栄養士に面談の予約とるか?』
「いいですいいです」
少し離れたところを、鴨が一羽、すいすい泳いでいた。魚もいて水鳥もいて、このあたりは自然に還りつつあるらしい。鴨が滑るように進むと、水面近くの〈煤〉にも流れが生まれ、波紋ができるのと同じように、淡く滲んで綺麗なマーブル模様が描かれた。
時實が足を止めた。
ハンドサインで示されたほうを見る。
ある民家の玄関横、車二台を停められる広さのカーポートの上。
ウラグが五体集まっている。
〈煤〉が濃くて視程が不良のときは、ディスプレイに別窓が開いてサーモグラフィーが映し出される。ウラグも遠赤外線を放射していることに変わりないので、温度分布が可視化されて、離れていても、細かい動きもよくわかる。
大体の大きさは中型犬くらい、一番大きいものでも自転車くらい。流線型の体に四足歩行。身の丈より長い頑丈そうな尾。
典型的な四足型だ。
数年前までウラグは尖兵型と呼ばれるタイプが主だった。
尖兵型は、体高が二メートル近くあり、鋭い爪と牙を持ち、ものによっては人間の言葉を流暢に話し、さらには人間に擬態までする、考え得る限り最悪の化け物で、人々を物理的にも心理的にもおびやかし、NAGIAとSAKaUを非常に手こずらせた。
だが〈鬼火〉がナヅキを銷失させて以降、つまり二〇一六年以降、日本を中心とした東アジアに存在するウラグは急速に矮小化した。体は犬くらいまで縮み、知能は衰え、人間の言葉を話すことが困難になった。人間に上手に擬態などできようはずもない。
ナヅキが銷失したことで顕著に弱体化したのだ。
尖兵型がいなくなったわけではなかったものの、ウラグの脅威は格段に減った。
ナヅキからの〈煤〉放出がなくなり、世界の〈煤〉の総量は約三割減った、とする説もある。なんとなく〈煤〉が薄くなり、青空が見える時間が長くなると、やはり気持ちが上向くのか、心なしか、世間も明るくなった。経済活動が活発になり、インフラや物流も、〈煤〉以前までとはいかないが、順調に回復している。
〈鬼火〉のおかげだ。
だからこそ〈鬼火〉は特別視されている。
桂木は、橋から塀に移ると、そのまま近くの物置に移り、さらに家屋の一階の屋根によじ登った。時實も音もなくついてくる。屋根伝いに隣家に移って、錆だらけのベランダの陰に身を潜めた。薄墨色のポンチョを後ろへ捌き、背負っていたクロスボウを前に回して、矢をつがえ、構える。充分狙える位置だ。ディスプレイにはすでに五体それぞれのマッキベンスケールが表示されている。
数値が一番高いのは、やはり、体が一番大きな個体だった。
でかい四足型に狙いをつけて、トリガーを引く。矢は綺麗な弧を描いて飛び、でかい四足型の背に当たった――もっとど真ん中を狙っていたのだが、ちょっとずれた。矢筈の赤いランプが一度だけ瞬くと、次の瞬間、白い閃光が噴き上がり、でかい四足型はぐしゃりと潰れた。
他の四足型は、突然のことに驚いて「ニャヒー!」と叫ぶと蜘蛛の子を散らすように逃げだした。あるものは「ニャモニャモ」と鳴きながら物陰に隠れ、あるものは勢いよく水に飛びこんだ。
他の四足型を深追いはしない。
ウラグの中でも人間への敵対心には強弱がある。群を抜いて強く賢く、アジテーターとなり得る一体を潰せば、そのコミュニティは自然消滅するとされていた。最小の手数で最大の効果を得ることが重要だ。
でかい四足型の外殻が端から崩れ、さらさらと銷失していく。
これを確認すると、桂木は立ち上がった。
時實が後ろから声をかける。
「初駆除成功だな。おめでとう」
「あ、はい」
なんか、地味だな……
華々しいデビューを飾りたいわけではなかったが、こうも地味だとちょっと拍子抜けだ。
まあそんなもんかも。
「駆除したら、シリウスが取ってるデータを使って報告書を作る。教育係が付いてるうちは教育係のコメントも要るから、書けたら俺のほうに回して」
「はい」
役目を終えたクロスボウを背負い直し、家屋の屋根から降りて、橋に戻る。
前を歩く時實が、白熊に駆除完了の報告をしている。
橋の中ほどまで来て、桂木はふと足を止め、振り返った。
足音が聞こえたような気がしたのだ。
自分のものでも時實のものでもない足音。
目を凝らしてみるが、淡いグラデーションを描いて揺れる〈煤〉の中を、鴨が一羽、バタバタと飛び過ぎていくばかりだった。サーモグラフィーのほうも変わったところはない。
改めて周囲を見回すが、不審なものはない。
静かだ。
気のせいだったか、と桂木は歩き始めた。時實は先に進んでしまっている。
しかし、橋を渡りきるというところで再び足を止めた。
やはり、何か――
ある種の不安を感じて振り返り、桂木は見た。身を低くした中年の男が、橋の上を駆けてくる姿を。一体どこから現れたのか。考える暇はなかった。おじさんはたちまち桂木に迫った。彼は角材のようなものを振りかぶっていた。桂木はこれをかわし、足払いをかけた。引っかかったおじさんは派手に転び、腐れた橋がギギッと悲鳴じみた音を立てて大きくたわんだ。おじさんの手から落ちた角材はボチャンと水に落ちた。
この隙に、桂木は橋から地面に移った。
誰だ? 民間人か?
なんで襲ってくるんだ?
予想もしなかった事態に、桂木はまごついた。
おじさんは、顔を上げ、桂木を睨んだ。服はぼろぼろ、髪はバサバサ。〈煤〉にまみれて全体的に薄黒く、カサカサに痩せこけているのに、目だけが潤んで血走っていた。
立ち上がり、懲りずに桂木に向かってこようとする。
止めないと。他にも武器を持ってるかもしれない。
でもなんて言えばいい?
すぐ近くから空気を震わせる銃声が轟いた。これには、桂木もおじさんも、一様に身を強張らせた。
時實が上空に向けて威嚇射撃したのだ。
小銃片手に〈煤〉の向こうから姿を現しながら、時實はめんどくさそうに言った。
「職務中のSAKaUへの暴行は罪が重いよ」
「うるせえ、税金泥棒!」
NAGIA職員は公務員ではない。
だがその職務の公益性の高さから、警察官や消防官と同じような公務員だと勘違いする民間人は、非常に多かった。特殊公益財団法人ということで政府からある程度の助成金が出てはいるものの、運営母体はウンブラ財団であり、実際のところ、彼らの給与に税金は含まれていない。が、それを知らない者たちは、
「役立たずの税金泥棒! 誰のカネで飯食えてんのかわかってんのか!」
という決まり文句でSAKaUを罵るのだった。
わりと言われるので、SAKaU隊員はもはやいちいち否定することもない。
「おとうさん、落ち着いて」と時實が宥めようとするが。
「おまえらは役立たずなばかりかウラグを殺す。あんなにかわいいのに。あいつらが何をしたって言うんだ。集まっておしゃべりしてただけじゃないか。ウラグだって懸命に生きてるんだぞ! いつかおまえらにも天罰が下る。ウラグを虐殺した罪、〈煤の王〉の意志に背いた罪、運命を受け容れなかった罪だ。おまえらはひどい死に方をする!」
「それ以上言ったら警察呼ぶよ」
おじさんは何事か喚きながらダッシュで橋を渡って〈煤〉の中に姿を消した。
このあたりをねぐらにしている路宿者だろうか。この濃い〈煤〉の中でも防煤マスクをしていなかったし、〈煤の王〉がどうこう言っていたので、信奉者かもしれない。
ウラグが矮小化し、あまり怖くなくなると、ウラグを野生動物か何かのように考える者が出てきた。駆除するのは可哀想だ、共生できないか、と言うのだ。喉元過ぎればなんとやら、今までどれほどの恐怖を味わってきたか、あっという間に忘れてしまうものらしい。海外では「ウラグにも権利がある」と主張する厄介な団体もあるという。
『桂木、大丈夫か?』と白熊。
「はい」
『いきなり災難だったな。まあでもこういうことはちょいちょいあるから』
「あんまりひどいのに遭ったときは警察呼べ」と、時實。
SAKaUは人間には手を出せない。当たり前だが。
もし人間に手を出してしまったら、普通に暴行罪だか傷害罪だかに問われる。
ウラグより人間に絡まれるほうが多いくらいなのに――理不尽だが、仕方ない。
「しかし、あれだな、武装してる人間を襲ってやろうって思えるのすごいよな。まあ日本人は自分も撃たれるかもとかあんま思わんか。撃たんし」
ぼそぼそ言いつつ、時實は何事もなかったかのように歩きだした。
桂木はそのあとを追った。
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