悠久の友、そして魂の在り処

私の、終わりなき日常に、それは、一通の電子信号として、届けられた。

暗号化された、短いメッセージ。その発信源は、アルプスの山中に隠された、彼女の隠れ家。

『――坊や、退屈していない? たまには、昔話でもしないこと? エレナ』


その、あまりにも懐かしい名前に、私の、千年以上も鼓動を忘れたはずの心が、微かに、跳ねた。

エレナ。

西洋で出会った、もう一人の、悠久の時を生きる化け物。私の、唯一の、同類。

彼女からの、便りだった。


私は、返信の代わりに、自ら設計した、超音速のプライベートジェットを、スイスへと飛ばした。

再会は、実に、450年ぶりだった。

彼女のシャレー(山荘)の扉を開けると、そこにいたのは、記憶の中の、あの姿と、何一つ変わらない、エレナだった。血のように赤い唇、闇を吸い込んだような瞳、そして、見る者を破滅へと誘う、退廃的で、危険な美貌。

「……ずいぶん、大きくなったじゃない、ラン」

彼女は、そう言って、まるで、昨日会ったかのように、ワイングラスを差し出してきた。この450年という歳月が、彼女にとっては、ほんの数十年の経過だと、認識されているようだった。


私たちは、暖炉の火を前に、互いの、この450年間の出来事を、語り合った。

二度の世界大戦も、その後の、人類の驚異的な発展も、そして、AIの登場も、彼女は、私と同じように、あるいは、それ以上に、深く、洞察していた。

彼女は、ある時期、偽名を使い、AIを使った革新的な医学研究の論文を、次々と、ネット上に発表していたという。それは、当時、医学界を震撼させ、「奇跡の論文」と呼ばれたものだった。人類社会に、ささやかな、しかし、決定的な貢献をしていたのだ。

また、彼女は、独自に開発した、小型の探査衛星を、いくつも打ち上げていた。太陽系の、まだ誰も到達していない領域を探索させ、ロボットで、希少鉱物を発見し、そして、木星の衛星エウロパの、氷の下の海で、ついに、地球外生命体を発見した、最初の人物でもあった。その、バクテリアのような、原始的な生命体の存在は、2070年代には、公の事実として、人類社会に、大きな衝撃と、興奮をもたらした。

彼女の話は、どれも、刺激的で、老獪で、そして、深い知恵に満ちていた。時代の裏側で、重大な発見を、たった一人で、繰り返し行ってきた、孤独な賢者の物語だった。


だが、話が進むうちに、私は、彼女が、どこか、私に対して、気後れしていることに気づいた。

「……変わったわね、あなた。昔は、ただの、血気盛んな、可愛い坊やだったのに」

彼女は、寂しそうに、目を伏せた。

「あたしの腕の中で、抱きしめてやれるような、存在だった。でも、今は……もう、ずっと、先を行ってしまっている」

そして、彼女は、信じられないことを、告白した。

私の過去の発言、ネット上に残る僅かな痕跡、そして、公になっている泡沫城の技術情報。それら全てを、彼女が開発したAIに、何十年もかけて、学習させ、私の思考パターンを、ほぼ完璧に再現した、「AIクローン」を、作り上げたのだという。そして、そのAIを、ヒューマノイドに搭載し、「ラン」と名付けて、この長い孤独を、慰めているのだ、と。


その、あまりにも、痛々しい告白に、私は、言葉を失った。

私は、エレナを、強く、抱きしめた。

その身体は、吸血鬼らしく、ひどく冷たかったが、その奥で、魂が、小さく、震えているのが、分かった。

彼女は、この450年間、殆ど、一人きりで過ごしてきたのだ。

私のように、愛する誰かと出会うこともなく、守るべき、自分の「町」を持つこともなく。

ただ、私との、遠い日の思い出と、そして、私に負けたくない、この化け物のレースから、取り残されたくない、という、強烈なプライドだけが、彼女を、ここまで、突き動かしてきたのだ。


その夜、私たちは、体を重ねた。何度も、何度も、交わりあった。

それは、かつての、炎のような恋とは、違う。互いの、埋めようのない、千年の孤独を、ただ、肌と肌で、確かめ合うような、静かで、そして、哀しい、儀式だった。

私には、エレナという、ライバルがいる。そして、永遠の、友がいる。

それは、もはや、恋愛という感情を、遥かに超越した、同じ「不老」という呪いを背負った者同士の、奇妙で、しかし、かけがえのない、絆だった。


翌朝、私は、彼女の家を後にした。

「じゃあ、行くよ」

「ええ。また、数百年後にでも、会いましょう」

私たちは、どちらも、振り返らなかった。


それから、さらに数十年が過ぎた。

ある日、私は、長年の夢だった、個人での、宇宙旅行へと、旅立った。ELLIEとは違う、泡沫城が開発した、最新鋭の小型宇宙船で、太陽系の果てを目指す、気ままな旅だった。

そして、無重力の空間で、青く輝く、美しい地球を眺めていた、その時だった。

船が、予期せぬ、強力な宇宙線に、晒された。警報が鳴り響き、船体は激しく揺れ、そして、私は、壁に、強く、頭を打ち付けた。


意識が、遠のいていく。

そして、私は、霊界に、迷い込んだ。

いや、そう思った。

そこは、光に満ちた、温かい、海の底のようだった。

目の前に、彼女がいた。

エリー。

千二百年以上前に、私の腕の中で、冷たくなったはずの、最愛の人魚。

その、この世のものとは思えぬほど、美しい姿は、あの日のままだった。


彼女は、何も、言わなかった。

だが、その、海の色の瞳が、優しく、私に、語りかけてくる。

『ありがとう、ラン』


その声は、私の肉体の中で、優しく、響いた。


『でも、まだ、あなたと、この世界を、見ていたい』

『かつて、この世界が、憎かった。人間が、憎かった。今でも、時々、全部、壊したくなるほどの、憎しみが、こみ上げてくる』

『それでも……あなたが、見せてくれた、この千年の世界は……愚かで、醜くて、どうしようもなく、哀しいけれど……それでも、とっても、美しかった』


ああ。

私は、彼女の肌に、触れたかった。

あの、真珠のように滑らかな肌に、もう一度、ただ、触れたかった。


けれど、その指先が、彼女に届く前に。

私の意識は、現実へと、引き戻された。


目を開けると、そこは、宇宙船の、医務室だった。リアルが開発した、最新の医療AIが、私の治療を、終えたところだった。

あれは、霊界などではなく、ただの、生死の境で見た、幻だったのかもしれない。

それでも、私は、理解した。

私は、千二百年以上経った、今でも、変わらず、エリーを、この世の誰よりも、何よりも、愛しているのだ、と。

そして、彼女の魂は、私のこの、化け物の肉体の中で、私と共に、この世界を、旅し続けていたのだ、と。


私は、窓の外に広がる、無限の星空を見つめた。

私の、この、あまりにも長い旅は、まだ、終わらない。

エリー。

君が、見ていたいというのなら。

私は、行こう。この、世界の、そして、この、宇宙の、果ての、その、さらに、先まで。

君と共に、永遠に。

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