泡沫城主、あるいは時の漂流者

徳川が天下を平定し、長き戦国の世は、今や老人の繰り言の中にしか存在しない、遠い過去の物語となった。泰平の眠りを貪るこの国は、元禄という爛熟の時を迎えている。大名は牙を抜かれ、参勤交代の行列で財をすり減らし、武士は刀を腰に差しただけの役人へと姿を変えた。世を動かすのは、もはや武力ではない。米と、金。そして、その二つを握る町人たちの、尽きぬ欲望だ。


私は、と言えば。

この徳川の世において、奇妙な地位を与えられていた。

九州の果て、大陸との海路にほど近い、しかし中央からは忘れ去られたような辺境の地。そこに、私は小さな城を持っていた。幕府が私という得体の知れぬ存在を、その監視下に置きつつ、しかしその知識と財力を利用するために与えた、いわば金の首輪だ。私は、この城を「泡沫城(うたかたじょう)」と呼んだ。栄華も、権力も、全ては水の泡のように儚いという、自嘲を込めて。


私は、気まぐれな城主だった。

年の半分以上は、城を留守にしている。太閤秀吉の愚かな出兵が切り開いた朝鮮との新たな航路、そして、明から清へと主を変えた大陸との交易に、私は熱中していた。持ち帰る絹や陶磁器、薬種は、私にさらなる富をもたらした。だが、私が本当に求めていたのは、富ではない。知識だ。特に、海の向こうの、さらに遠い「西洋」という世界から、オランダ船が運んでくる、断片的な情報。それらが、私の渇ききった魂を、たまらなく刺激した。


解剖学、自然科学、天文学。

人が、神や仏ではなく、自らの手で世界の理(ことわり)を解き明かそうとしている。その途方もない試みに、私は畏怖と、そして嫉妬にも似た興奮を覚えていた。かつて私が三十年戦争dreißigjähriger Kriegの地獄を、この目で直に見た時の衝撃が、その思いをさらに強くしていた。


あれは、まだ徳川の治世が盤石とは言えぬ頃。私は、自らの船で、遥かヨーロッパへと渡った。ドイツの荒野で見た光景は、応仁の乱の比ではなかった。宗教という大義名分を掲げた、国家間の、組織的で、効率的な殺戮。テルシオと呼ばれた密集方陣を、改良されたマスケット銃の斉射が崩していく。それは、長篠の戦いの、さらに先にある光景だった。

私はその地で、人の身でありながら、炎と破壊を自在に操る錬金術師や、死体から魂の在り処を探ろうとする医師、星の動きから世界の終わりを予言する占星術師など、数多の狂える知性と出会った。そして、哲学、文学、歴史、科学といった、西洋が数千年かけて積み上げてきた知の体系を、この化け物じみた頭脳に、貪るように吸収していったのだ。


その旅の終わりに、私はスイスの山中で、彼女と出会った。

名は、エレナ。

その美しさは、私が千年以上を生きてきた中で、エリーと並び立つほどのものだった。だが、エリーの美しさが自然が生んだ奇跡の造形だとするならば、エレナのそれは、闇と血と、そして長い年月だけが磨き上げることのできる、危険で、退廃的で、抗いがたい魔性の輝きだった。


私たちは、互いが「同類」であることを、一目で理解した。

人ならざる者。時の流れの外側で、孤独に漂い続ける者。


「あなた、東洋の鬼(デーモン)ね。その魂、古くて、とても哀しい匂いがする」

「お前もな。西洋の吸血鬼(ヴァンパイア)か。その血、たくさんの死者の味がする」


私たちは、恋に落ちた。それは、炎と氷が交わるような、激しく、刹那的な恋だった。私たちはアルプスの山小屋で、互いの過去を語り、体を重ね、そして、それぞれの孤独を、ほんの束の間だけ、分かち合った。


エレナは、六百年ほど前、ローマ貴族の末裔として生まれたという。ゲルマン民族の侵攻で全てを失い、フランク人の男に嫁いで三人の子をもうけた。ごく普通の、人間としての幸福。だが、ある夜、彼女の運命は一変する。

パン屋で、血塗れの美しい男が倒れていた。助けて、と囁くその男が、吸血鬼であると知りながら、彼女はその美しさに抗えず、自らの血を与えてしまった。ラン、あなたも分かるでしょう? 理屈ではないの。ただ、その美に殉じたいという、どうしようもない衝動が、人を狂わせるのよ。そう言って、彼女は寂しそうに笑った。


代償として、彼女は人ならざる美貌と力、そして不老の肉体を得た。だが、それは、家族との決別を意味した。化け物となった彼女は、夫と子供たちを捨て、助けた吸血鬼の男と、百年以上を共に生きた。だが、その恋も、終わりを迎える。

百年戦争の最中、男は、かつての友であった王族の子孫を守るため、その命を落とした。毒を塗られたバリスタの矢で弱り、そこを吸血鬼狩りに。守るものが多すぎたのよ、あの人は。優しすぎたの。そう言って、エレナの紅い瞳が、僅かに揺れた。


以来、彼女は一人で生きている、と。

彼女は、私にとって、最高の恋人であると同時に、最高の師でもあった。デカルトの哲学、ガリレオの天文学、ヴェサリウスの解剖学。彼女の口から語られる西洋の知の奔流は、私の世界観を根底から揺さぶった。

だが、私たちは、共にいることは選ばなかった。

鬼と吸血鬼。あまりにも、似すぎていた。互いの孤独を癒やすことはできても、その魂を、真に救うことはできないと、私たちは知っていたからだ。


「さよなら、我が日本の鬼(ヤポニッシャー・デーモン)。また、数百年後に、どこかで会いましょう」

それが、彼女との最後の言葉だった。


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