非在の楽園、竜宮城
ララを舟に乗せてから、数日が過ぎた。
私たちは、漫然と、しかし彼女の記憶の糸をたぐるように、海の上を漂っていた。
「もう少し、西の方……。月の光が、水面にまっすぐな道を作る、新月の夜……。何かが、開く、気がする」
ララの言葉は、ひどく曖昧であり、詩的だった。だが、私には、それがただの空想ではないことが分かっていた。この世界には、人間の物差しでは測れぬ理(ことわり)が存在する。私がこうして、千年以上を生き永らえているように。
そして、ある新月の夜。
空には星々が溢れるように輝き、海は墨を流したように静まり返っていた。
「……ここだ」
ララが、震える声で言った。
見ると、目の前の何もないはずの海面が、ゆらりと陽炎のように歪んでいる。空間そのものが、別の次元へ向かって口を開けようとしているかのようだった。
「行くぞ。しっかり掴まっていろ」
私は舟の速度を上げ、その歪みの中へと突っ込んだ。
瞬間、視界が真っ白になる。重力が消え、上下の感覚さえ失われた。まるで、光の奔流の中を突き進んでいるようだ。エリーの肉を喰らった、あの変態の瞬間に似た、だがもっと穏やかで、優しい感覚。
やがて、光が収束し、私たちの舟は、静かな水面に、ぽつんと浮かんでいた。
そこは、洞窟のようであり、しかし、空には本物の太陽ではない、柔らかな光を放つ巨大な真珠のようなものが浮かんでいる、不思議な空間だった。空気は澄みきり、水の底までが見渡せる。そこには、色とりどりの珊瑚が輝き、見たこともない魚たちが、光の粒を撒き散らしながら泳いでいた。
そして、その光景の中心で、私たちは、息を呑んだ。
無数の、人魚たちがいた。
老いも若きも、男も女も。彼らは、穏やかな表情で、この楽園の中を、思い思いに過ごしている。だが、よく見ると、彼らの誰一人として、完璧な姿の者はいなかった。ララのように腕がない者、尾ひれが半分ちぎれている者、全身に醜い火傷の痕跡が残る者……。その誰もが、人間の手によって、深い傷を負わされた者たちだった。
「ララ! 帰ってきたのか!」
数人の人魚が、私たちに気づき、嬉しそうに集まってくる。彼らは、ララの無事を心から喜び、そして、私という異質な存在に、驚きと興味の視線を向けた。
「この方は、ラン。わたしを、ここまで送り届けてくれた、命の恩人」
ララに紹介され、私は、この楽園の創設者たちと、顔を合わせることになった。
一人は、姫と呼ばれる、ミアという美しい人魚だった。彼女の髪は、まるで金糸のようで、瞳は深い慈愛に満ちていた。しかし、その背中には、かつて捕鯨用の銛(もり)で貫かれたであろう、大きな古傷があった。
もう一人は、キルと名乗る男だった。彼の姿を見て、私は、我が目を疑った。彼は、人魚だった。だが、その魂の気配は、かつての私と、あまりにも似ていた。
「驚いたか。俺は、元は人間だ」
キルは、私の心中を見透かしたように、静かに笑った。
「愛する人魚が、目の前で人間に殺された。俺は、その亡骸を喰らい、復讐を誓った。そして、人魚となった。俺と同じ悲劇を繰り返さぬよう、この場所を創ったのは、俺と、ミアだ」
ララが言っていた、「すごく強くて、すごく哀しい目をした、人魚の男」。それが、キルだった。
私は、彼に、自分の身の上を語った。私が、かつて人間であり、エリーという人魚の肉を喰らったことを。千年以上も、この地を彷徨い続けていることを。
「そうか……。お前も、同類か」
キルとミアは、同情とも、憐憫とも違う、深い共感の眼差しで、私を見つめていた。
この奇跡のような場所で、私は、この楽園の真の姿を知った。
この穏やかな光景は、全て、幻だった。
この空間を支えているのは、人間の手によって無残に殺されていった、数えきれぬほどの人魚たちの屍。その強い、強い怨念が、この世ならざる場所に、この楽園という結界を維持しているのだ。
私は、この場所に満ちる、エリーのそれとは比較にならぬほどの、強大で、純粋な怨念の力に、畏怖の念を覚えずにはいられなかった。ここは、楽園などではない。あまりにも哀しい、魂の墓場だった。
三日後、私は、現世へ帰ることを決意した。
ここは、傷ついた人魚たちのための場所だ。私のような、人間と人魚の狭間にいる化け物が、長居して良い場所ではない。
「ラン、また、いつでもおいで。ここは、あなたの故郷でもあるのだから」
ミアとキルは、そう言って、私を見送ってくれた。ララは、涙を浮かべながら、「ありがとう」と、何度も繰り返した。
光の奔流を抜け、再び、見慣れた瀬戸内の海へと戻る。
たった三日間の、夢のような時間だった。
そう、思っていた。
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