血と婚姻、あるいは盤上の駒

私の力が宮中で無視できぬものとなると、次なる段階が訪れた。敵対ではなく、懐柔。あるいは、利用。

その最初の試金石が、藤原氏と対立する源氏の公卿から持ち込まれた。私を己の陣営に取り込むため、彼は最も分かりやすいカードを切ってきた。


「我が娘、葵(あおい)を、そなたに嫁がせたい」


政略結婚。彼の駒として、私を縛るための楔。葵という娘は、私を監視し、その動向を逐一父へ報告するための密偵の役割を負わされているのだろう。全てお見通しだった。


家臣たちは反対したが、私はこの申し出を受けた。

面白いではないか。敵陣の懐に、自ら飛び込んでやるのも一興だ。


祝言の夜。

私の屋敷に輿入れしてきた葵は、終始、恐怖に強張った表情をしていた。齢十五。まだ少女の面影を残す彼女にとって、私は噂に聞く「物の怪を殺す鬼武者」でしかないのだろう。


「……」

二人きりになった閨(ねや)で、彼女はただ俯き、小さく震えている。


私は彼女の隣に座り、酒を注いだ杯を差し出した。

「飲め」

「ひっ……!」

彼女は悲鳴を上げて身を竦ませる。毒でも入っていると疑っているのか。私は構わず続けた。


「お前の父君に言伝てはあるか? 『橘嵐、まんまと罠にかかり、娘を人質に取られ、意のままに動いております』とでも報告するか?」

「な……!?」

葵の顔が、驚愕に見開かれる。

「なぜ、それを……」


「お前は、お前の父の駒ではない」

私は彼女の言葉を遮り、静かに言った。

「お前は今日から、橘嵐の妻だ。ならば、橘家の女として、誰に恥じることなく、誇り高く生きれば良い。それ以外の何者にもなる必要はない。俺がそれを許す」


私は杯を置き、彼女の趣味が和歌と香であるという事前情報を元に、話を続けた。

「源氏の姫ともなれば、歌の嗜みも深かろう。今度、お前の歌を聞かせてくれ。香合わせも良い。俺は、戦場の血の匂いよりは、沈香(じんこう)の香りを選ぶ」


葵は、呆然としていた。彼女が想像していたであろう、粗野で乱暴な武士の姿は、そこにはなかった。彼女の人間性を、その背景にある策略ごと見透かした上で、なお一個の人間として尊重する男がいただけだった。

その夜、私たちは指一本触れ合うことなく、ただ夜が明けるまで、和歌について語り合った。私の博識ぶりに、彼女は何度も目を丸くしていた。


数日後、葵は父の元へ手紙を書いた。私がそっと盗み見たその文面には、「あのお方は、鬼などではございません。あまりに器の大きな、ただ、あまりに孤独な御方です」とだけ、綴られていた。

彼女は、本気で私に惹かれ始めていた。そして私もまた、彼女の健気さ、聡明さを、本気で愛おしいと感じ始めていた。これが、私の言う「本気で愛した」の一つ目の形だった。役割を押し付けられた人間を、その軛(くびき)から解き放ち、ありのままの姿で側に置く。それは私にとって、最も自然な愛情表現だった。


私の宮中での地位が磐石になる一方で、武士としての本分も疎かにはしなかった。

帝の信頼を得たことで、私はこれまで公家たちが壟断(ろうだん)してきた軍事の全権を、少しずつ掌握していった。


そんな折、西の海で大規模な海賊の被害が報告された。彼らは複数の国の者たちからなる連合艦隊で、沿岸の村々を襲い、朝廷の徴税船さえも略奪しているという。検非違使では歯が立たず、被害は拡大する一方だった。


「嵐よ、行け。そなたの力で、西の海を平定せよ」


帝の命を受け、私は自ら鍛え上げた兵を率いて西国へ向かった。

初めて本格的に対峙した海は、私の想像を絶する存在だった。どこまでも続く蒼。天と地の境を曖昧にする水平線。時に穏やかに凪ぎ、時に荒れ狂って全てを飲み込もうとする、圧倒的な暴力性。


海賊たちとの戦いは、熾烈を極めた。

陸(おか)での戦いとは、勝手が全く違う。足場は常に揺れ、風と潮の流れを読まねばならない。私は持ち前の身体能力と超人的な思考力で、即座に海戦の理を理解し、実践した。敵の船に飛び乗り、嵐のような太刀捌きで甲板を血に染めていく。


「化け物だ……!」

「あれは、人の動きじゃねえ!」


海賊たちは恐怖に叫び、逃げ惑った。

ひと月もしないうちに、西の海から海賊は一掃された。


この功績は、これまでのどんな手柄よりも大きな意味を持った。それは、帝の権威が直接及ばぬ場所での、圧倒的な武力の証明だったからだ。


京に戻った私を、帝は自ら出迎えた。そして、全ての公卿たちが居並ぶ前で、宣言した。

「橘嵐の功績は、計り知れない。よって、嵐に五位の位を授け、貴族に列することを許す」


武士が、その一代の武功によって貴族となる。

前代未聞の出来事に、誰もが言葉を失った。父が夢見た「武士が国を支える時代」を、私という個人の力が、現実のものとしてこじ開けた瞬間だった。


貴族になったことで、私の元にはさらに多くの縁談が舞い込むようになった。坂東に残してきた橘の血を引く武家の娘。財力を持つ地方豪族の娘。私が救った村の、素朴だが芯の強い娘。私はそれらを拒まなかった。葵にしたのと同じように、彼女たち一人一人と向き合い、それぞれの人生を尊重し、そして妻として娶った。いつしか私の妻は五人となり、屋敷は常に女子供の賑やかな声に満たされるようになった。


生まれた子供たちは、二十一人を数えた。私は彼らに、かつての父のように過大な期待を押し付けることはしなかった。ただ、自らの頭で考え、自らの足で立つための術だけを教えた。


「お前たちは俺の子だが、俺の写し身(うつしみ)ではない。俺を超える必要も、真似る必要もない。お前たち自身の物語を、お前たち自身の手で紡いでいけ」


橘家は栄華を極めた。私は帝の絶対的な信頼を得て国政に深く関与し、家庭では良き夫、良き父として振る舞った。誰もが、私を成功者として羨み、あるいは妬んだ。


だが。

私の内なる器は、依然として満たされることがなかった。

帝との魂の交感も、妻たちへの誠実な愛も、子らへの慈しみも、全ては私の巨大すぎる空虚の表面を滑っていくだけだった。この手で掴んだはずの栄光も幸福も、どこか現実感のない、薄っぺらな舞台装置のようにしか感じられない。


心の奥底で、まだ乾きが癒えない。

何かが、決定的に欠けている。

この世界にある、全ての理(ことわり)や常識を超えた、何か。私のこの規格外の魂を、根こそぎ揺さぶるような、何か。


海賊討伐で見た、あの海の景色が、時折、脳裏をよぎるようになった。

あの、全てを飲み込むような蒼の深淵。美しさと恐ろしさが同居する、あの場所。

あそこには、まだ私の知らない物語があるのではないか。


そんな予感が、胸の奥で微かな疼きとなって、消えずにいた。

それが、私を破滅と永遠へと導く、人魚の歌声の序曲であることを、この絶頂の只中にいる私には、知る由もなかった。

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