京、そして帝へ
歳月は流れ、私は十八になっていた。
もはや、かつての本拠地である坂東に、私の敵はいなかった。橘家の家督を継いだ私は、父の旧臣たちをまとめ上げ、周辺の豪族たちを瞬く間に平定し、その勢力を確固たるものにしていた。
私の戦い方は、父とは全く異なっていた。
父が『義』や『誉れ』を重んじたのに対し、私は『結果』と『効率』のみを追求した。奇襲、陽動、情報戦。使えるものは何でも使った。兵法の知識を実践に応用し、まるで未来を予見するかのように敵の動きを読み、常に先手を取った。戦場での私は、人の心を持たない精密な機械のようだと、味方からも敵からも恐れられた。
私の名は、やがて京の都にも届くようになった。
「坂東に、橘景虎を超える鬼神あり」
そんな噂が、貴族たちの間でも囁かれ始めた。
そして、好機が訪れる。
京の都で、物の怪によるものとされる奇妙な事件が頻発したのだ。夜な夜な、貴族が忽然と姿を消す。朝になると、その屋敷の庭には、血の痕跡もなく、ただ衣だけが残されているのだという。
陰陽師たちが様々な呪術を試みたが効果はなく、検非違使(けびいし)の武士たちも手出しができない。公家たちが恐怖に震える中、藤原氏の若き摂政が、ついに一つの決断を下した。
「地方の武士に、この物の怪退治を任せてはどうか。中でも、噂に聞く橘嵐。その力を試してみるが良い機会であろう」
それは、都の武士たちへの当てつけであり、成功すれば自らの手柄、失敗すれば田舎武士の無能と切り捨てられる、狡猾な策だった。
私に、その勅命が下った。
家臣たちは皆、反対した。物の怪などという得体の知れないものを相手にするのは危険すぎるし、何より貴族の思惑に利用されるだけだと。
だが、私は即決した。
「行く」
これは、千載一遇の好機だ。
京に、私の名と力を直接見せつけるための。帝の御前に、我が身を運ぶための。
僅かな手勢だけを連れて、私は京の都へ上った。
初めて見る都は、噂に違わぬ華やかさと、そして、その裏に澱む深い闇を抱えていた。きらびやかな衣装を纏った貴族たちが牛車で行き交う大路のすぐ傍らで、痩せこけた民が物乞いをしている。豪奢な屋敷が立ち並ぶ一方で、打ち捨てられたような荒れ寺も点在していた。
「嵐様。あれが、摂政様の屋敷にございます」
手勢の一人が指し示す先には、他の邸宅とは比較にならないほど壮麗な屋根が見えた。
私は馬上からそれを見据え、小さく鼻を鳴らした。
「物の怪、か。面白い」
私には、その正体におおよその見当がついていた。
それは、超自然的な存在などではない。もっと生々しい、人間の欲望と狂気が生み出した『化け物』の仕業だろう。そして、そういう相手こそ、私の最も得意とするところだった。
摂政との面会は、儀礼的で、侮蔑に満ちたものだった。彼は扇で口元を隠し、私を値踏みするように見下しながら、尊大な態度で事件の概要を説明した。
「田舎武士に、都の物の怪が退治できるかな?」
彼の言葉には、隠そうともしない嘲りが含まれていた。
私は表情一つ変えずに答えた。
「それが、帝の御心とあらば。たとえ、相手が本物の鬼であろうと、この橘嵐、必ずや屠ってご覧に入れましょう」
私の揺るぎない態度に、摂政は一瞬、言葉を失ったようだった。
すぐに彼は不快そうに顔を歪め、「好きにするがよい」とだけ言って私を下がらせた。
その夜から、私は独自の調査を開始した。
手勢に都の地理と情報を徹底的に洗わせ、私自身は、夜の闇に紛れて事件が起きた屋敷を一つ一つ検分して回った。私の人外の五感は、常人には見えない痕跡を捉える。微かな匂い、僅かな足跡、空気の流れの乱れ。
三日目の夜。
私は、ある結論に達した。
犯人は一人ではない。複数だ。そして、彼らは驚くほど統率が取れており、武芸にも長けている。これは単なる追い剥ぎや人さらいの類ではない。明確な目的を持った、組織的な犯行だ。
「面白い。実に、面白いではないか」
夜風に吹かれながら、私は一人、笑みを浮かべた。
退屈だった世界に、ようやく歯応えのある敵が現れた。
そして、四日目の夜。
私は、ついに『物の怪』たちと対峙した。
場所は、藤原氏と敵対する、とある小貴族の邸宅。私が張った網に、奴らがまんまと掛かったのだ。
闇の中から現れたのは、黒装束に身を包んだ十数人の男たちだった。彼らは一切の物音を立てず、まるで影が動くように屋敷に侵入しようとしていた。
「そこまでだ」
屋根の上から声をかけると、男たちは一斉に動きを止め、私を見上げた。その動きには一切の無駄がない。相当な手練れの集団だ。
「貴様、何者だ」
「帝の命により、物の怪を狩りに来た者だ。橘嵐と申す」
私の名を聞いて、男たちに動揺が走る。噂は彼らの耳にも届いていたらしい。
「ふん、田舎武士が。我らの邪魔をするか」
「邪魔ではない。お前たちを、ここで終わらせる」
言葉を交わすのは、もはや時間の無駄だった。
一人の男が合図を送ると、黒装束たちは一斉に私へ襲い掛かってきた。ある者は壁を駆け上がり、ある者は手裏剣のような暗器を投げる。
それを、私はただ静かに迎え撃った。
太刀を抜き、ひらり、ひらりと舞うように、全ての攻撃をいなしていく。
私の動きは、彼らの予測を常に半歩、上回っていた。
「な……!?」
「速すぎる!」
彼らの驚愕の声が、耳に心地良い。
そうだ。これが私だ。お前たちのような人間の物差しで測れると思うな。
反撃は、一瞬だった。
闇に閃光が走り、黒装束の一人の腕が飛んだ。次の一閃で、別の男の喉が切り裂かれる。私の太刀筋は、人の急所だけを正確に、そして冷酷に捉えていく。それはもはや、剣術ではなく、解体作業に近いものだった。
阿鼻叫喚の地獄の中、私はただ淡々と『作業』を続けた。
十分も経たぬうちに、立っている者は頭目らしき男一人となっていた。彼は恐怖に顔を引きつらせ、後ずさりながら私を睨んでいた。
「き、貴様……人間か……?」
「さあな。だが、お前たちが『物の怪』を名乗るのであれば、俺は『鬼』とでも名乗ろうか」
私はゆっくりと歩み寄り、血に濡れた太刀の切っ先を、男の喉元に突きつけた。
「さて、聞かせてもらおうか。お前たちの正体と、その目的を。誰に命じられた?」
この事件は、私の予想通り、藤原氏の政敵を排除するために、摂政自身が仕組んだ狂言だった。黒装束たちは、彼が密かに飼っていた忍び働きを行う特殊な武士団だったのだ。
全ての情報を聞き出した後、私は頭目を一突きで始末した。
翌朝、私は摂政の屋敷を訪れ、彼の目の前に、黒装束たちの死体から切り取った耳を投げ出した。
「約束通り、物の怪は退治いたしました。ご覧の通りです、摂政殿」
彼の顔が、恐怖と屈辱に歪んでいく様は、なかなかの見ものだった。彼はもはや、私に何も言うことはできない。己の罪が、完全に私の手に握られてしまったのだから。
この一件により、橘嵐の名は、京の都に決定的な形で刻みつけられた。
単なる田舎の武勇伝ではない。都の闇を、たった一人で平定した、底知れぬ実力者として。
そして、私の名は、ついに帝の耳にまで達した。
帝は私に興味を持ち、直々に謁見したいと望んだ。
念願が、叶ったのだ。
父が夢見た場所。帝の御前。
私は、ついにその入り口に立った。
一代で帝直属の近衛兵となり、貴族にまで昇格する。
その物語は、まさにここから始まろうとしていた。
――そして、その先に待つ、エリーという名の破滅と永遠に、この時の私はまだ、気づいていなかった。
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