9 翔子の髪
寺に戻るとサブは逃げて来た時に履いてきたズボンをタンスから取り出した。
ずっと、住職が用意してくれたTシャツと作業ズボンで過ごしていたため、寺に運ばれて以来、見ていなかった。
丁寧にたたまれたズボンのウエスト部分を鷲掴み、裾を落とすとズボンは真直ぐに垂れ下がった。
空いた手を右側のポケットに突っ込む。
そして、塊になったメモ用紙を引き抜いた。
洗われて塊となったメモ用紙からは、張りのある髪の毛が何本も延びていた。
サブはテーブルにそれを置き、慎重に髪の毛を抜きながらメモ用紙を分解していった。
髪の毛は一本一本きれいに並べ、紙くずとは分けて置いた。
翔子はそれを、複雑な気持ちで見ていた。
「悪かったな……」髪の毛を全部、並べ終えるとサブはそう呟いた。
サブはテーブルに置いてあった茶碗を髪の毛の上に置き、飛ばされないようにすると部屋から出て行った。
(どこに行くんだよ)翔子はそう言ったが、付いて行こうとはしなかった。
テーブルの傍に座ったまま、茶碗の下の自分の髪をジッと見つめた。
怨みを感じることはなかった。ただ、悲しみがこみあげてきていた。
(わたしの人生って、何だったんだろう
ろくな人生じゃなかったよ。
義理の親父。あいつ、わたしが中学三年生のとき、迫ってきやがった。
嫌がったんだよ。ちゃんと抵抗した。
そしたら殴られた。それからは怖くてなんにもできなかった。
お母ちゃん?お母ちゃんは見て見ぬふり。
味方になんかなってくれなかった。
それどころかわたしのこと叱るんだ。「誰に食わせてもらってるんだ」てね。
だから、家を出て友達の家を転々としたよ。
高校、そんなところは行ってないよ。
毎日遊んでた。そんな友達はいっぱいいたしね。
そんで、ゲーセンで遊んでいるところをサブにナンパされたんだ。
『かっこいい!』って思った。
いっつもイキってて、大人の男にも威張り散らす。
『こいつだったら守ってくれる』そう思ったよ。
風俗には売られちゃったけど、わたしには結構合っていたし、あいつ、それが分かっていたんだと思う。
風俗で働くようになってからも、前と変わらず遊んでくれたしね。
それに、家にいるよりもずっとましだった。
わたしを殺した理由も分かってるんだ。
焦ると何をしでかすか分からないんだ、あいつ。
多分、若頭のときも、きっと同じだったんだと思う。
嫌いなわけじゃないみたいだったからね。
ほんのちょっとだけ、何かあったんだよ。きっと。
あいつ、馬鹿だから、どうしようもないんだよ。
でも、あいつ、思い出してくれた、わたしのこと……)
サブは半紙を一枚持ってきた。
「きれいにしような」
そう言って、テーブルに置いた和紙に髪の毛を丁寧に並べ、折りたたんだ。
「入ってもいいですか?」
障子の向こうで住職の声がした。
「ああ、いいよ」
サブは明るい声で答えた。
障子を開けると、住職が現れた。
手にはとうもろこしを載せた皿を持っていた。
「とうもろこしを茹でてきました。一緒に食べませんか?」
「玄さんのところのかい」
「ええ、帰りに寄って来たんです。好物だと聞いたものですから、持ってきました」
「へへ。玄さん、そんなこと言ってたんだ。悪いけど、昼間食べ過ぎちまったよ」
「そうですか。では……」
そう言って住職は部屋から下がろうとした。
「いいよ。ここで食べなよ。聞きたいこともあるしよ」
住職は嬉しそうに微笑み、テーブルに皿を置いて正座した。
「なんだか堅苦しいな」
「すみません。慣れてしまっているものですから」と謝った。
「いいって。気にすんなよ。ちょっと思っただけだからよ」
住職はまた頭を下げた。
「ところで、お話とは?」
住職は興味深げに訊ねた。
「食べんじゃねえのかよ?」
「ええ、先に話を聞かせいただければと思っています」
「そうか……」
サブは一度、言葉を切った。
「これ」
サブは和紙を指し示した。
「なんですかこれは?」
「開けてみてくれ」
住職は丁寧におられた和紙を、順序良く開けて行った。
「髪の毛ですね?」
「ああ、俺の女のなんだ」
「そうでしたか。今はどうされているのですか?」
「死んじまった」
「……それはお気の毒に」
「葬式を上げやりてえんだ」
「まだ、上げていないのですか?」
「それは俺には分かんねえ。髪の毛だけ貰って来たんだ」
「そうなのですね。『サブさんとして』葬式を上げてあげたいという事ですね」
するとサブは改まったように正座した。
「それで相談なんだけどよ。俺にお経を教えてくれねえか?」
サブは、軽く頭を下げた。
「お経ですか。それはいい。――サブさん、あなたはお気づきですか」
サブは顔を上げ、不思議そうに住職を見つめた。
「ここ数日、あなたは仏教の修行を行っていたのです」
「俺が?――修行を?」
「はい。庭を整える中で静かに心を澄ませ、今日は柵の修理を買って出て玄さんから布施を受けました。そして今、彼女さんのために読経を願っています。これらはすべて、仏教でいう“修行”なんです」
「……なんだか俺じゃねえみてぇだな」
住職は微笑むと立ち上がり、部屋から出て行った。
翔子は黙ってサブを見ていた。なんだかサブが急に大人になったように見えていた。
住職は戻ると、小さな経典をサブに差し出した。
「何だいこれは?」サブは尋ねた。
「般若心経です。短いお経ですが、宇宙や人生の摂理が書かれています。また、悟りを開くように応援する教えでもあります。これを読んでみませんか?」
サブは経典を手に取ると、開き始めた。漢字が並び、そのわきにカナが振られていた。
「手本に読んでみましょう。明日からご自分で読むといいです」
そう言うと住職は般若心経をそらんじて見せた。
サブは真剣な表情でそれを見つめ、翔子はサブを見つめた。
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