第3話『死体との対面』

刑事の後について503号室に入ると、まず鼻をついたのは、薬品の匂いだった。

消毒液のようであり、あるいはもっと別の、形容しがたい臭気。

ホルマリンに近いが、どこか甘ったるい有機溶剤のような匂いが混じっている。

幸介の知識の片隅を、不快に削るような異質な香りだった。


玄関からリビングへと続くドアは開け放たれている。

奥では白い防護服を着た数人が黙々と作業をしているのが見えた。

床には番号札が置かれ、カメラのフラッシュが時折、無機質な光を放つ。

明らかに、ここはもう日常の地続きにある空間ではなかった。


「リビングは鑑識作業中ですので、こちらへどうぞ」


幸介たちを伴った五十代くらいの刑事――田中と名乗った――はそう言って、玄関脇の小さなドアを開けた。

通されたのは、おそらく納戸として使われているのだろう、三畳ほどの狭いスペースだった。

壁際には段ボール箱がいくつか積まれ、予備の椅子が折り畳まれて立てかけてある。窓はなく、換気扇が回る低い音だけが響いていた。


部屋の中央にはパイプ椅子が二脚置かれ、先に入っていたいちかが、不安そうにその一つに腰掛けている。

その隣には、先ほどエントランスでいちかを連れて行った若い警官が、硬い表情で立っていた。


そして、幸介たちのすぐ隣、ドアのそばに、いつの間にか一人の男が立っていた。

年の頃は幸介と同じくらいか、少し下だろうか。細身の体に、流行りのオーバーサイズのTシャツを着ている。

どこか中性的な顔立ちで、困ったように少し眉を下げていた。


「あ、えーっと……南雲です」


男は、幸介と乃愛に軽く会釈をした。

その声は、見た目の印象通り、少し頼りなげに聞こえる。

この男が、あの噂好きの住人が言っていた「礼儀正しい」と評判の……?


幸介がわずかな違和感を覚えた、その瞬間。

隣に立つ乃愛が、幸介の腕を指先でごく弱くつねった。

幸介が視線で問うと、乃愛は南雲から目を逸らしたまま、ほとんど聞き取れない声で囁く。


「……この人、何か違う。表面と奥の気配が、全然……」


「では木闇さん、改めまして、お話を聞かせてもらえますか。私は、埼玉県警大宮警察署の刑事、田中と申します」


田中刑事が、いちかに向き直って自己紹介をした。

幸介と乃愛は、いちかの向かいに立つ形になる。乃愛はそっと幸介の背後に回り、心配そうに成り行きを見守っていた。

狭い部屋に大人が五人もいると、空気がさらに重く、息苦しく感じられた。


「はい……覚えてることは、全部話します。でも、途中で眠ってしまったので……あんまり……」


いちかは俯きながら、か細い声で答えた。

田中刑事は、そんな彼女を急かすことなく、穏やかな口調で促す。


「結構ですよ。思い出せるところからで構いません」


いちかは頷き、震える手でポケットからスマホを取り出した。

時折言葉に詰まり、潤んだ瞳で幸介を見上げながらも、努めて冷静に、自分に起きた出来事を語り始める。


「これ……お店からの、昨日の指示です」


いちかが刑事に見せたスケジュール画面には、こう記されていた。

『5月9日(金) 19:00 スターミストマンション503号室 南雲様』


「時間通りにチャイムを鳴らすと、ドアを開けたのは……ここにいる南雲さんとは、まったく違う男性でした」

「えっと……南雲、さん……ですか?って聞いたら、曖昧に頷いたような気がします。レンタルのお客さんって偽名を使う人も多いから、深くは気にしませんでした」

「とにかく、その人は……背が高くて、すごく顔が整ってて……モデルさんみたいな感じで……。ここにいる南雲さんとは、全然タイプが違います。それははっきり覚えています」

「私が『南雲さん』って呼びかけても普通に返事をしてくれたので、彼が依頼主なんだと思って、そのまま部屋に入りました」


いちかによると、午後7時半頃、男が「ドリンクの無料チケットがあるんだ」と言い出し、駅前のカフェでカフェラテを二つ注文したという。

宅配サービスを利用し、午後8時前にパーカーを着た配達員の男性が、紙袋に入ったカフェラテを届けに来た。

そして、男と一緒にリビングのローテーブルでカフェラテを飲んだ直後、突然、立っていられないほどの激しい睡魔に襲われた、と。


「……それから、どれくらい寝てたのか……全然覚えてなくて。起きた時間も、見てなくて……」

いちかは目を伏せた。長いまつげが震えている。

「……はっと目が覚めて……頭がガンガンしてて……もしかしたら、私、何かされたんじゃないかって……怖くなって……。それで、向かいを見たら……」


その時の光景がフラッシュバックしたのか、いちかは「ひっ」と短く息を呑み、言葉を詰まらせた。


「……血、だらけで……人が……倒れてて……」

「……パニックになって、部屋を飛び出して……先輩のところに……助けを……」


田中刑事は、静かにメモを取りながら聞いていたが、最後に確認するように尋ねた。その声は依然として穏やかだった。

「木闇さん、一つだけ。その……倒れていた方は、あなたが部屋に来た時の客の男性でしたか?」


いちかは、顔をこわばらせながらも、きっぱりと首を横に振った。

「部屋でお会いしたお客さんは、ここにいる南雲さんとは全くの別人です! それは間違いありません!」

その声には、恐怖の中にも確信がこもっていた。

それから、声のトーンを落とし、死体のことを思い出したのか再び顔を歪めて続ける。

「でも……その人が、あの……倒れていた人と同じかどうかは……わかりません。顔なんて、見れなかったし……もう、思い出したくもなくて……」


「いちかちゃん……」

乃愛が、たまらず心配そうに声をかけた。


その様子を見ていた田中刑事が、静かに、しかし有無を言わさぬ口調で言った。

「木闇さん。辛いのは重々承知の上ですが、一つだけ確認していただきたい。この惨状の中ですが、遺体の服装や体格が、昨晩あなたを部屋に招き入れた男性と一致するかどうか。それを証言できるのは、今ここにいるあなただけなんです」


田中刑事の言葉に、いちかは唇をきつく噛み、助けを求めるように涙目で幸介を見上げた。


「……先輩が、一緒に来てくれるなら……頑張って、みます……」


「ああ、大丈夫だ。俺がついてる」

幸介は、その必死の形相に胸を締め付けられながら、力強く頷いた。


こうして、幸介といちか、そして田中刑事の三人は、再びあの異様な空気が漂うリビングへと向かうことになった。

乃愛と南雲、若い警官は納戸に残された。



リビングの中央には、人型の染みが広がり、その上にブルーシートが無造作に被せられていた。

鑑識の作業は一時中断されているのか、数人が壁際に控えてこちらを見ている。

薬品の匂いが、先ほどよりも強く感じられた。


「木闇さん、無理はなさらないで。気分が悪くなったらすぐに言ってくださいね」


田中刑事が静かに言い、ブルーシートの端に手をかけた。

ゆっくりとめくられる青いシートの下から、おぞましい光景が露わになる。


「きゃっ!」


いちかは短い悲鳴を上げ、咄嗟に幸介の背中に隠れた。

幸介も思わず息を呑む。

そこにあったのは、明らかに「普通」ではない、人間の亡骸だった。

長野の変死体、乃愛が見たという痣……そして、目の前のこの惨状。

まるで世界のタガが外れて、グロテスクな暴力が溢れ出しているかのようだった。


「やっぱり……首が……ない……それに……お腹が……」


幸介の背後から顔だけ覗かせたいちかが、震える声で呟いた。

幸介も視線を落とす。

首から上は確かに存在せず、腹部は無惨にも引き裂かれ、どす黒い何かが覗いていた。

強い鉄錆のような臭いが鼻をつく。

幸介は吐き気をこらえ、いちかの肩を強く抱いた。


「顔も分からないし、これだけ損傷が激しいと、確認しようがないんじゃないですか?」

幸介は、いちかを庇うように前に立ち、田中刑事に尋ねた。


「ええ、おっしゃる通りです。ですので、服装や体格など、何か見覚えのある点はないでしょうか?」

田中刑事は、幸介の背後に隠れるいちかに、労わるような視線を向けた。


遺体は、黒のスキニーパンツに白のTシャツ、そしてグレーのパーカーを羽織っていた。

どこにでもいる、二十代くらいの若者の、ごくありふれた服装だった。


いちかは、幸介に促され、指の隙間から恐る恐る遺体を見たが、すぐに顔を背け、大きく首を振った。

「……分かりません……ごめんなさい……服装とか、全然、覚えてなくて……」


「いえいえ、無理もありません。衝撃的な状況ですからね。気持ちが落ち着いて、もし何か思い出したら、いつでも結構ですので教えてください」

田中刑事は、優しい言葉をかけた。


その、瞬間だった。


幸介は、ふと背後から突き刺すような視線――いや、殺気にも似た何かを感じて、反射的に振り返った。


いつの間にかリビングの入り口に、あの南雲が立っていた。

先ほどの頼りなげな雰囲気は消え、その口元には、嘲るような冷たい笑みが浮かんでいる。


「死体は市原英気(いちはら えいき)ですよ」


南雲の声は、先ほどとは打って変わって、低く、妙にはっきりとした響きを持っていた。

その視線は刑事ではなく、幸介の背後にいるいちかに向けられている。


「僕が彼にこの部屋を、昨日の夜から貸す約束をしていたんですから。彼がここで死んでいると考えるのが自然でしょう」


「南雲さん」

田中刑事が、わずかに語気を強めて遮った。

「その話は、後ほどじっくりと伺います。今は木闇さんに確認をお願いしている最中です。申し訳ありませんが、先ほどの部屋でお待ちいただけますか」


刑事の言葉自体は丁寧だったが、その声には明らかな怒りが込められていた。


だが、南雲は意に介した様子もなく、話を続ける。その目は、怯えるいちかを捉えたままだ。


「ここのマンションは全室オートロックです。外部から合鍵なしで侵入するのは不可能」

「その合鍵を持っているのは、基本的には住人である僕だけです」

「そして、僕は昨晩、アリバイがある。調べてもらえばすぐに分かりますよ」

「ここは5階ですから、ベランダからの侵入も現実的ではない。隣の部屋とも十分な距離がある。つたって来るなんて曲芸師でも無理でしょう」

「――となれば、犯人が誰なのかは、自ずと明らかになるんじゃないですか?」


「南雲さん、部屋にお戻りください!」

田中刑事の声が、鋭く響いた。そばにいた若い刑事が、南雲に詰め寄ろうとする。


しかし南雲は、近づく刑事を手で軽く制し、くるりと背を向けた。


「初動捜査を誤ると、真犯人に逃げられてしまいますよ。いち市民として忠告申し上げるだけです。別に、刑事さんたちと敵対したいわけじゃありませんから」


そして、部屋を出る間際に、思い出したように付け加えた。


「そうそう、僕が彼の死体を発見した時は、うつ伏せでしたよ。もちろん、僕がひっくり返したわけじゃありませんが」


その言葉を残し、南雲はリビングを去っていった。

冷笑を浮かべたその横顔が、やけに幸介の目に焼き付いた。


「やっぱり、私、疑われてるんですよね……? でも、本当に何も知らないんです。私、ただ……眠ってただけなのに……」


いちかは、か細い声で呟き、幸介の服の裾を強く握りしめた。


「分かってる。誰もいちかのことなんか疑っちゃいねえよ!」

幸介は、込み上げる怒りを抑えきれずに叫んだ。

「あの野郎、余計なこと言いやがって……! 許せねえ……!」

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