第3話

「ああ、それ」


 大将はちらりと女の方を見る。そして女が何も反応しないのを確認すると、大将は解説し始める。


「それね、フールーを酸味のある果汁で溶いたソースなんですよ」

「フールー?」

「腐った乳と書いて、腐乳。聞いたことありませんか?」


 そこでようやく私は思い至った。

 豆腐を塩水と麹で漬け込んだ塩辛い調味料に、腐乳、フールーという名前の品があった。本来は淡白な豆腐が、発酵によって肉類とも立ち向かうほどの旨味を手に入れているのだ。

 しかし、それだけでは鶏肉の豊かな肉汁には敵わない。というか多重化した旨味によってクドくなってしまう可能性すらあった。

 ところが、いざ口にしてみると、確かに鶏肉と腐乳の旨味は感じられるものの、重なった旨味にクドさは感じられない。


「食べたことの無い味ですが、これはクセになりますね」

「酒は奢らんぞ?」


 思わず欲しいと思ってしまったそれに、女が鋭く切り込んでくる。態度はほとんど変わらないが、辰の仙人だということを明かした途端に仙人の力をひけらかしてくるあたりはフレンドリー、なのかもしれない。


「せっかくなのでビール頂けますか。グラスで」

「はい、ただいま」


 腐乳ソースは確かに旨味が深いものの、それら全てが苦味と炭酸で払拭出来るのは組み合わせの妙と言えるだろう。


 ビールと唐揚げに向き合っていた私は束の間、時を忘れていたらしい。ふと女の方を見てみると、彼女の前に並んでいた料理は一皿を除いて無くなっていた。

 厨房の方を見れば、下げた料理をタッパーに詰めている大将の姿があった。あれはきっと大将の晩御飯になるのだろう。

 よく見ると女の前に置かれているその一皿も、それまであった料理とは別の皿のようだ。


 豆腐のように四角いが、黒っぽい層とクリーム色の層が交互に重なって出来ているようだ。それが飾り気のない真っ白な皿の中央に盛られている。

 知る限り、ティラミスのように見える。

 例によって女はうっとりとそれを見つめるだけで、時たま日本酒の入ったお猪口を傾ける様子はそれまでと変わらない。いちおう皿の前にフォークが用意されているが、使う機会は無さそうだ。


「大将、あのケーキは私にも出せます?」


 何を隠そう、私は甘党である。


「あー、試作品なのでメニューに書いてなかったんですよね。まだ残ってますし、食べてみますか?」

「是非」


 そうして出されたのは、まさしくティラミスだった。ココアパウダーがたっぷり振りかけられ、口に含めばコーヒーとワインの香り、その後からこってりとしたチーズの旨味が……来ない?

 確かにチーズの味はするものの、食べ慣れた脂肪分の味が無く、すっきりとした後味を残して喉をすり抜けていく。

 私が頭にはてなマークを浮かべていると、大将がにこにこしながら解説を始める。


「ちょっと面白いでしょ?」

「ええ、思ったより軽い食べ口なので驚きました」

「昔、マンガで見たアレンジレシピなんですがね、ソレを使うってこと以外に書いてなかったから、後は私の想像なんですよ」


 『ソレ』はたぶんチーズのことだろう。ティラミスはビスケットやらカスタードクリームやら、高カロリーな食材を組み合わせて作られるが、その一角がマスカルポーネという高脂肪分のチーズだ。もちろんその脂肪がおいしさに関わるのだが、大将のティラミスに使われているチーズはもっとあっさりしている。


「ソレね、リコッタチーズなんですよ。同じフレッシュチーズではあるんですが、脂肪分は大違い。バランスを取るのに苦労しましたが、いい味になったと思います」


 そうとわかって一口含めば、ワイン、コーヒー、ココア、カスタード、チーズと、どれひとつ取っても主役級の素材が一度に口の中で爆発する。これこそカロリー爆弾というものだろう。しかしそれを口に含む罪悪感を、低脂肪分のチーズが僅かばかり軽減してくれる。


「たっぷり食べた後のティラミスは『罪』ですね」

「言うほど食べてないじゃないですか?」


 大将と私でくつくつと笑っていると、席の端で音がする。見れば女が席を立っていた。身だしなみを整え、帰り支度をしている。手荷物はなく、着の身着のまま訪れたようだ。

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