神仙グルメ『甲辰』
青王我
第1話
その日、居酒屋の隅に座っていたのは奇妙な女だった。
高そうなスーツ姿の女が一人で、カウンター席の端に座っていたのだ。ブランド物かどうかは分からないが、よく手入れされたスーツを着こなしている。
店の表には赤提灯が揺れ、古臭い昔気質の店構えだとすぐに分かる。置いてあるカクテルといえばチューハイがせいぜいという居酒屋に女の一人客というのも珍しいといえば珍しい。しかしカラオケがなく、酔って女を口説きに掛かる酔客をお断りする大将の性格も相まって、一人呑みには居心地がいいのだ。それ自体は奇妙とは言えないだろう。
奇妙なのは、その食べ方だ。
女の前にあるのは、つまみであろう一品料理がいくつかと酒の二合とっくり、そしておちょこだ。いずれの料理も湯気を立てていて、出来立てか、まださほど時間が経っていないように見える。
おもむろに、女は一口分注がれたおちょこの中身を優雅に口へ含んだ。彼女はそれをまるで甘露であるかのように、目をつぶってじっくり味わい、慎重に飲み下す。それから次の一口分を慣れた手つきで注ぐ。
それだけだ。酒を飲んでいないときは姿勢を正して料理をうっとりと眺めている。箸は目の前に一膳用意されているが、箸置きに置かれたまま使われた形跡もない。
連れを待っているわけでもなさそうだ。この店は連れが遅れてくるとか、単に予約されているというときには、該当する席に予約席を表す小さな標識を置く。それが彼女の隣に無いということは、彼女は正しく一人客ということだ。
不審がられないようにちまちまと菜の花のお浸しをつまんでいた私だったが、ここに来て小鉢が空になってしまった。酒を頼んでおらず料理の皿も空になった男がただ席に座っているのは違和感しか無い。何か追加のつまみを頼むべきだろう。
カウンターの向こう側の壁には、大きなホワイトボードが客からよく見える位置に掲げられている。オススメの品物であったり、最近仕入れた品物であったりと、期間限定のものが並んでいることが多い。少なくともこの店ではそうだ。
既に次の頼むものを決めていた私は、顔を上げて大将の方へ目を向けた。そして注文を頼もうと軽く息を吸うのと、芯の通った低い声が店内に遮るのは同時だった。
「食べるかい、青年」
一瞬、この声の主はどこにいるのだろうと戸惑う。大将は騒がしい店内でも通る高めの声だし、そもそも他に客は居ないはずだ――カウンター席の端に座っているあの女以外は。
私は思わず声の主の方を見た。すると彼女はこちらをちらりとも見ず、手元にあった皿のひとつをこちらへ押し出す。
「いいんですか?」
と私が聞くのに対して、ひらりと手を振った以外は特に答えもない。さらなる答えを求めて大将の方を見ると、彼は彼で、ひとつ頷いて受け取るよう仕草をするだけだ。
「ええと、ではありがたく頂きます」
そうして譲られた皿は、下敷きとしてまな板のような木製の皿、その上に耐熱皿が乗っかっている。そしてその耐熱皿には、黒い液体が掛かったグラタンのようなものが入っていた。料理からはまだ湯気が立っている。それは耐熱皿の保温能力のおかげかもしれないし、ひとさじも手がつけられていないからかもしれない。
添えられていた木匙でひとくち食べてみると、ホワイトソースとチーズが織り成す濃厚な旨味とともに、普通のグラタンにはない酸味を感じる。柑橘系の爽やかな香りと酸味、そして醤油の塩味。
「ポン酢?」
「ご明察です」
大将が微笑む。
「意外と合うでしょう」
グラタンにたっぷり掛かっていた黒い液体の正体はポン酢だった。ホワイトボードを一通り読んだ限りは載っていなかったはずなので、これはいわゆるチョイ足しなのだろう。
こってりさ、温かさを楽しむグラタンにポン酢をただ掛けるのは、この料理の良さを二つともかき消してしまうように思われたが、不思議と冷えた様子はない。
「それ、一度沸かしたポン酢を掛けてあるんですよ」
湯気を立てる匙の上の一口をしげしげと見ていると、すかさず大将が補足してくれた。確かにそれなら冷める心配は無い。
「グラタンにポン酢は目からウロコでした。ホワイトソースにポン酢が合うとは――」
私と大将の会話を遮るように、陶器同士が触れ合う小さな音が店内に響く。それを聞いた大将がそそくさと厨房へ引き下がっていくのを目で追っていくと、カウンターの端に座っている女と目が合った。
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