夏果ての花々

苺伊千衛

プロローグ

叶星司の独白0

 一か月前、無二の親友にして、最愛の恋人だった男がこのビルから落ちた。


 八月最後の日、快晴。叶星司(かのうせいじ)は炎天下の太陽に焼かれながらビルの屋上に立っていた。入り口に張り巡らされた立ち入り禁止の黄色いテープを越え、建付けの悪いドアを蹴破って、半ば無理やり押し入った屋上は、コンクリートの照り返しが肌に痛い。


 フェンス際に向かい、縦格子に背を預ける。


 彼の死から様々な後始末を終え、ようやく職務から解き放たれた星司は、負うべき責任ももはや無い。


  残された仕事はただ一つ。彼のいる場所へ向かうことだ。


 死後の世界なんて存在しない、と、人は言うだろうか。


 しかし、星司はこの世界の真相を知っていた。人間は死んだら皆冷たい暗闇をさまよい続けるのだ。


 もちろんその〝真相〟も、突き詰めれば宗教のようなもので、死後の世界を実際に語れる生者はいない。どちらにせよ、彼がこの世界から消えてしまった今、死後の世界についての真偽はどうでもよかった。ただ、もう一度会えるかもしれないという一縷の望みがあるなら縋り付くだけだ、とフェンスから身を乗り出しながら星司は思う。


 彼と同じようにここから落下してもよかった。


 だけど、今日は夏休み最後の日だ。子供たちの楽しい夏休みを、血で汚して終わらせるわけにはいかない。


 だから、ひっそりと死ぬことにした。


 あのとき、撃つことのできなかったハンドガンを懐から取り出す。夏の日差しに反射して黒光りする銃口は、恐ろしさよりも輝かしさを湛えていた。


  頭上から飛行機の飛ぶ低い音がした。


 見上げると、深く、どこまでも続く青空に真っ直ぐな線が引かれていた。その白さの、なんと眩しいことか。


 瞼の裏に飛行機雲の白を焼きつけながら、目を閉じる。そして、暗闇の中で一人戦い続けている彼に思いを馳せた。


 最後にもう一度、彼と過ごした日々を振り返ってみようか。


 星司は再び目を開け、胸ポケットに入れた手帳を開く。


 彼が死んでから一か月間、個人的に書いてきた手記だ。生きることを許されなかった彼の生きた証を、せめてでも残したかった。


 手帳の一ページ目は、彼と出会った日のことから始まる。


 初めて彼を見たとき、星司はその美しさに目を奪われた。艶やかな黒髪に、淡雪のような肌、シュッとした怜悧な顔つき。冷たい美貌と裏腹な優しさに、この上なく惹きつけられた。


 そんな彼と出会ったのは七月最初の日、通学路の交差点でのことだった。

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