Episode6. 役づくり


 ずい、と先生がさらに顔を寄せる。その勢いに1歩、2歩と後ずさった。


「今の俺、普段とは違う人に見える?」

「は、はい」

「結構別人?」

「結構、というか全く……?」

「ほー。そっか」


 顔を離し顎をするりと撫でながら、そっかそっか、と頷く。

 その表情は何やら嬉しそうだが、果たして今の言葉のどこに喜ぶポイントがあったのか分からない。


「ちなみに、何でそう思った?」

「何でって……言葉遣いも違うし、声上げて笑ってるところもあんまり見たことないなって。別の人みたい」

「あれ、そんなに俺のこと見てくれてたの?」


 喋るの今日が初めてだよね、と意地悪く上がった口元に、自分がとんでもない失言をしたことに気づいてぎょっとする。


「あ、いや! その、ただのイメージというか、えっと」

「いやぁ鋭いね、領家さん」


 慌てて弁明するも、そこには興味がないのか手にした携帯灰皿を弄ぶ。宙に軽く投げ、キャッチして、もう一度。


「まあ二重人格ってのは、ハズレだけど」

 

 ぽんと再び投げられた黒い箱が、重力で落ち、大きなてのひらに吸い込まれる。

 その、雑な物の扱い方も意外だった。

 吸い寄せられるように目で追っていると、握った拳をズボンのポケットに持っていき、するりとその中に箱を落とす。

 そして片足重心気味だった体の芯を起こし、ピンと真っ直ぐな姿勢で両手を後ろで組むとニコリと笑った。


「僕のこと、気にしてくれてたんですね」


 一瞬で魔法にかかったように人が変わる。

 姿形も声も同じなのに、つい数秒前まで会話を交わしていた人とはまったくの別人と対面しているようで思わず息を呑んだ。

 言葉遣いだけではなく、目の温度、姿勢、笑い方。全身から醸し出す雰囲気がまるで違う。

 仄かに漂う煙草の香りが、かろうじてこれが現実だと、目の前の人と先ほどまでの先生が同一人物だと示してくれているものの。

 自分の目が信じられなかった。

 呆気に取られる私を見て、先生は肩の力を抜いてふっと笑う。

 その仕草は、先生であって先生ではない。

 

「――俺が作った教育実習生『雨野蓮』は、品行方正で清潔感があって、真面目でにこやかに人の話を聞く好青年。一人称は『僕』で、話しかけやすそうな優しげな雰囲気。生徒にも先生にも敵を作らず、適度な距離感で接することができる。要するに、あえて俺からは一番遠い人物像なわけ。まあ、そのおかげで」


 自分のことなのに、つらつらと遠い他人のプロフィールを読み上げるような口調。かと思えば、


「僕、結構この学校で好感度高いでしょう?」


 瞬きする間でたちまちいつもの先生に戻る。

 パチ、パチとスイッチで切り替えているように出たり引っ込んだりする顔に、私は目が回りそうだった。

 それに気づいているのかいないのか、「理解してくれた?」と笑う。


「……『俺が作った』?」

「そう。俺ね、劇団入ってて俳優目指してんの」

「はい?」


 話が予想外の方向へ曲がり、意味もなく「はいゆう?」と繰り返す。


「そう。この教育実習も、のちのち何かに活かせるかもなって。で、せっかくならこれが役だと思ってやってみればいいじゃんって思いついたの。台本なんかないし、アドリブばっかりでいい練習になるし頭も使うし。天才じゃね?」

「はあ……」


 変わった人だ。

 どうやら二重人格ではないようだが、つまり、いつもこの学校で見せているのは仮の姿――私が見ていた雨野先生は完全な虚像だった、らしい。

 ただ不思議なことに、ガラガラとイメージが崩れ去る感覚はなかった。むしろ、いつも穏やかに微笑むだけのロボットのような美しさより、ガサツで調子の軽いこちらの方がより人間くさくて――テレビの向こう側にいた人が、突然目の前に現れた気がした。

 

「っていうか、それ私に話しちゃって良かったんですか?」

「これ吸ってるの見られた時点で、取り繕っても仕方ねぇじゃん」


 これ、と言いながら人差し指と中指を掲げ、一見ピースのような手を口元で揺らす。


「さすがに校内ではいつも我慢してんだけど、ちょっと今日は無性に、ね。まだまだ俺も発展途上だな」


 そう言いながら私がぶら下げたままだったゴミ袋をヒョイと取り上げた。


「えっ」

「これ捨てにきたんだろ。ったく、どうせ掃除の時間に捨て忘れたとか? なんで今日に限ってなぁ」


 ぶつぶつと言いながら、立ち尽くす私をそのままに倉庫のシャッターをガラリと開け、袋を中に放り込む。

 袋を取られる瞬間、ほんのわずかに肌が触れ合った気がした。急速に熱を持って、思わず隠すように背中へ回す。


「……ありがとうございます、あの」

「ん?」


 ガラガラとシャッターを閉めながら私の方を振り返った先生に、「大丈夫ですから」と言った。

 

「私、言わないです。誰にも」

「え?」

「他の先生に告げ口するつもりもないし。友達にも言いません」


 嘘ではなかった。先生に言うつもりがないのは、単純に面倒なことに関わりたくないから。

 そして友達にも言わないのは、彼が『雨野先生』を演じていることを、私だけが知っていたいと思ったから。

 この学校内で誰もが知る存在の、誰も知らない部分を自分が独占していると思ったら。

 そんなの、言いふらす気にはなれなかった。


「……へえ、それはありがたいね」


 こちらに向き直った先生は再び私の前までやって来ると、ずいと右手を出した。


「じゃあ指切りしようか」

「え?」

「指切り。やったことあるでしょ」


 妖艶に笑うその姿は、喫煙していることがバレた側なのに余裕そうで、唐突に差し出された小指に追いつけない私はポカンと口を開けた。

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