『美しき告発者』

誰かの何かだったもの

第1章 告発の始まり

 ──その名前が、匿名掲示板に晒されたのは、火曜日の午後だった。


 「佐伯美和。34歳。都内の大手広告代理店勤務。容姿端麗、仕事もできると社内で評判の"完璧美女"──だが、本当の顔を知ってる人間は、いない。」


 スレッドタイトルは【職場にいる化け物女の正体を晒す】。

 あまりに扇情的で、悪意に満ちている。にもかかわらず、30分も経たないうちに、その投稿は100を超えるレスを集めていた。


 「まじでいたよ、こういうやつ」

 「アイコンの笑顔がウソくさかった」

 「昔から裏では男食い荒らしてたらしい」

 「こういう女って“完璧”に見えるよう演じてるだけだよな」


 誰もが事実を確認したわけではない。

 誰一人として佐伯美和と直接会ったことすらないだろう。

 それでも、匿名の言葉には妙な説得力と中毒性があった。

 誰かの完璧さを崩す瞬間に、人は快感を覚えるらしい。


 スレッドの中ほどには、勤務先を示唆する企業名や、本人と思われるSNSのスクリーンショットまで貼られていた。投稿主は、まるで彼女のことを昔からよく知っているかのように書いていた。


 「佐伯は高校時代、ある事件を起こしてる。表沙汰にはならなかったけど、人を一人、潰してる」


 そんな記述があった。


 証拠は、なかった。ただ言葉だけがある。

 だが、言葉は熱を帯びるとき、真実を凌駕する。


     ◆


 その日の夕方、佐伯美和はいつも通りの美しい笑顔で、オフィスを後にした。


 銀座の高層ビルの一角にあるフロア。最上階近くのラウンジで取引先との打ち合わせを終えた帰り。彼女はさりげなく髪をかき上げ、同僚の誰にも気づかれないように小さくため息をついた。


 ──今日は、何か変な日だ。


 感覚だけはあった。


 社内での視線が少しざわついている気がしたし、普段なら何気ない雑談を投げかけてくる後輩たちが、少しだけ口数が少なかった。


 スマートフォンの通知を確認すると、大学時代の友人から数件の未読メッセージが届いていた。


 《ちょっと見てほしいスレがある》《君の名前が出てるかも》《だいぶ悪意ある書かれ方してるけど大丈夫?》


 彼女は眉を寄せながらリンクを開く。

 次の瞬間、心臓の音が一気に耳の裏まで響いた。


 ──これは、誰がやったの?


 その疑問は、すぐに怒りや不安と交ざり合って、複雑な色を帯びた。

 なにより恐ろしいのは、「書かれている内容の一部」が、明らかに内部の人間しか知り得ない情報だったことだ。


     ◆


 夜、自宅のダイニングでワインを傾けながら、美和は一人、そのスレッドを見つめていた。


 「これは名誉毀損で訴えられるわ」


 そう口にしても、どこか空虚だった。

 否定すればするほど、自分が追い込まれていくような気がしていた。


 ──わたしは、そんな人間じゃない。


 でも、本当にそうだろうか?


 「人を一人、潰してる」

 その一文に、体が微かに反応した。

 意識から押し込めた記憶が、ノックされた気がした。


 ──あれは……もう、終わったことだったはず。


 高校時代のある出来事。封印してきた過去。

 自分でも忘れかけていたその闇を、まさか誰かが知っているとしたら──。


     ◆


 翌朝。


 通勤電車の中で、スマートフォンの通知が止まらなかった。

 掲示板のスレッドは瞬く間に拡散され、まとめサイト、SNS、さらには匿名YouTuberによる「暴露動画」まで登場していた。


 その中の一人が、彼女の高校時代の写真まで持ち出していた。


 「これは完全にアウトじゃない……?」


 思わずつぶやいた声は、誰にも届かない。

 電車内の乗客たちは誰も彼女の存在に気づかず、ただ各々のスマホを見つめていた。


 美和はスマホを握りしめたまま、ある思考にたどり着いた。


 ──これを書いたのは、あの人かもしれない。


 脳裏に浮かんだのは、10年以上前に「切り捨てた」誰かの顔。

 恨まれても当然のことを、自分はしたのだろうか。


 その問いは、自責ではなく、確認だった。

 彼女自身、その答えを確信していたからだ。


 「……これは、私への告発じゃない。復讐だ」


 口元に笑みが浮かぶ。

 静かな、けれど確かに深く黒い笑みだった。


 ──復讐だ。


 その言葉が、喉奥で甘やかに転がる。

 まるで昔の恋人の名前を久々に口にしたような、妙な懐かしさと生々しい感触があった。


 電車を降りて、会社のビルに入ると、すでに何人かの視線が彼女を追っていた。

 それは尊敬でも羨望でもない。

 「何かを知っている」という目。

 そして「何も知らないふりをしている」という目。


 人間は、他人の崩壊を見届けるとき、一番美しい目をする。


     ◆


 「お疲れ様です、美和さん……その、ネットの件、大丈夫ですか?」


 最初に声をかけてきたのは、広報部の後輩・高村だった。

 素直な性格で、人の悪口を言わない稀有なタイプだと、美和は思っていた。だが今の言葉には、どこか遠巻きな恐れが滲んでいた。


 「……私がなにかしたって、書かれてた?」


 「いえ……具体的なことは……でも、高校時代にって、あれ、ほんとなのかとか……社内でちょっと噂になってます」


 「──そう」


 美和はにっこりと笑った。

 相手の表情が、微かに強張るのが分かった。

 その笑顔が“完璧すぎて怖い”と何度も言われてきたことを、彼女自身が一番よく知っている。


     ◆


 昼休み。

 ビル裏の喫煙所で、派遣社員数名が小声で話していた。


 「知ってる? 佐伯さん、学生時代になんかあったらしいよ。ヤバいやつ潰したとか」


 「潰したってなに……? 物理的に……?」


 「さすがに殺人とかじゃないと思うけど。でも、その子、精神病んで転校したとか、そういう系」


 「怖……」


 「でもさ、あの人って“完璧すぎる”じゃん? ああいう人って、裏では絶対なんかあるよ」


 「いや、むしろその“完璧”が怖いんだよ……人間っぽくない」


 ──佐伯美和の“欠落”は、今、ようやく世間にとって「正常なもの」になりつつあった。


     ◆


 その夜、美和はひとり、自宅でパソコンを立ち上げていた。

 Googleの検索欄に、自分の名前を入力する。

 予測候補には、すでに「佐伯美和 裏の顔」「佐伯美和 高校 事件」といった文言が並んでいた。


 ──早いな、情報の腐食は。


 クリックすると、まとめブログの記事がずらりと並ぶ。

 中には、歪んだ加工写真や、悪意ある見出しを添えた記事もあった。


 【完璧美女の裏の顔! 佐伯美和、実は“闇堕ち女子”?】

 【彼女を追い詰めたのは誰? 謎の投稿主の正体とは】

 【過去に潰された女子高生が、今も失踪中?】


 ──失踪? そんなはずはない。


 記憶にある“彼女”──**槙村紗月(まきむら・さつき)**は、精神を病んだ末、両親の都合で他県の療養施設に送られたと聞いていた。


 しかし、今になって彼女の名がネット上で浮上してきたのは、偶然だろうか?


     ◆


 次の日。


 会社のデスクで、彼女は一通の封筒を見つける。

 差出人の記載はなかった。中には、手書きの便箋が1枚。


 ──あなたがしたこと、全部覚えてる。


 でも私は、ただの被害者じゃない。


 告発は始まったばかり。


 "あの人"にも見せてあげるわ、あなたの本当の顔。


 震える手で便箋を握りしめる。

 これは、間違いない。“彼女”の筆跡だ。

 あの、優しかった、脆くて、でもどこか狂気を孕んでいた少女。

 すべてを思い出した。


     ◆


 高校2年の秋。


 槙村紗月は、当時から少し“浮いて”いた。

 成績は中の上。大人しく、いつも一人で本を読んでいた。

 美和は、生徒会長として“校内の空気”を重んじていた。

 学校のイメージ。秩序。正しさ。それが何よりも大事だった。


 あるとき、槙村が男子教師と親しげにしているという噂が広まった。

 決定的な証拠はなかったが、美和は“行動”を起こした。

 匿名で、教師との不適切な関係を匂わせる告発文を校内にばら撒いたのだ。


 ──彼女を、切り捨てた。


 それがどれだけ残酷なことか、当時は理解していなかった。

 「学校の秩序」のためには、誰か一人が犠牲になるのは当然だと思っていた。


 数週間後、槙村は精神を病み、休学。

 誰にも何も言わず、いなくなった。


     ◆


 「これが、あの子の“返答”ってわけね……」


 便箋を見つめながら、美和は静かに呟いた。

 怒りではなく、興奮に近い感情がこみ上げてくる。

 十数年をかけて返ってきた“告発”。


 ──だけど、わたしは、もうあの頃の私じゃない。


 完璧を装うことに、長けた大人になった。

 企業の広告戦略を練り、商品の“顔”をつくり出す仕事をしてきた。

 つまり──虚像を操るプロだ。


 「あなたが告発するなら、私は操作するわ。世論も、真実も、あなた自身も」


 その瞳には、戦いを前にした者の火が宿っていた。


     ◆


 数日後。

 SNSに現れた新たなアカウントが、また注目を集めていた。


 アカウント名は**@puretruth_saki(純なる真実)**。

 アイコンは、月夜の少女がうつむくシルエット。


 投稿はこう始まっていた。


 「彼女は正義の仮面をかぶった怪物でした。」


 「私の人生を、完璧に壊してくれた恩返しを、始めます。」


 ──誰かが、誰かを壊そうとしている。

 けれど、真に恐ろしいのは、壊されることではない。

 壊し返すために、笑って武器を握る者がいることだ。


 佐伯美和は、画面の向こうの“敵”を見据えていた。

 告発は、すでに静かに、けれど確実に拡大していた。

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