魔法と科学のハローワールド
マシナマナブ
伝承研究所
「当研究所では、人類の古の英知を研究しております。一般に伝承や言い伝えと呼ばれる数々の教訓は、今では迷信として片付けられがちですが、これほど長く伝えられている以上、必ずそこには真実が存在するはずなのです」
所長の真剣な言葉が響き渡る中、私はこっそり後悔していた。『妙なところに来てしまった……』と。一風変わった研究所の取材と聞いてここにやってきているが、この研究所の研究内容は、私の予想を斜め下に大きく裏切っていた。門をくぐった時から不安はよぎっていたのだが、景気が悪そうな建物の外観だけで判断してはいけないと思ったのが失敗だった。
「つまりですね」と所長は私が尋ねる前に話し始めた。一番の問題はどこかというと、彼の口調が自信に溢れ、大まじめに語っているところである。
「科学が一般的でなかった時代、人々に事柄の真意を伝えるのは極めて難しかったわけです。しかし、伝承や言い伝えの形で語り継げば、後世にまで古の知恵を残せるのです。例えば、北枕が縁起が悪いというのもその一例です」
私は、仕方なく相槌を打つ。
「ああ、北枕ですね。確かに言いますね」
「ただの迷信とは思えないでしょう?」
と所長は顔を輝かせて話し始めた。
「そう、日当たりの問題なのです。北半球では太陽は常に南側にありますから、北向きの部屋は南側に比べて日当たりが悪く、湿度が上がりやすくなる。湿度が高ければカビや細菌が繁殖し、喘息をはじめとする気管系の疾患が増えることになるのです」
「あ、そうじゃなくて――」
「仰りたいことは分かります。多少日当たりが悪いくらいで、それほど体に影響があるとは考えられないでしょう。しかし、例え微々たる違いであっても、睡眠を取るのは毎日のことなのです。生涯、北枕で眠り続ければ、小さな影響の積み重ねで、かなりの被害を被ることになるはずです」
「いや、そう言う理由も分からないわけではないですが――」
私の言葉を気にすることもなく、所長の語りは尽きることがなかった。
「さらに、南半球では事情が逆転します。南半球では太陽は北側にありますから、日当たりが悪く湿度が上がるのは南側。つまり、南枕が縁起が悪いというわけです!」
「いえ、北枕の縁起が悪いのは、昔は、亡くなった人の頭を北向きにして寝かせることが多く、縁起が悪いからと聞いたことがあったんですけど――」
所長は私の言葉など聞こえなかったかのように続ける。
「湿度や細菌といった知識がなかったからこそ、彼らは伝承を通して後世に警告を残したのです。迷信などではないのです!」
あまりに一方的過ぎて会話が成り立っていないことに、私は心の中でため息をついた。
「それでは、当研究所の最新の研究成果について説明していきましょう!」
私が口を挟む間もなく、白衣を着た研究員が意気揚々と前に進み出た。後ろにはまだ数人の研究員が控えている様子を見るに、どうやら「迷信研究発表会」がこれから始まるらしい。
「私は、『夜に口笛を吹くと、ヘビが出る』というテーマについて研究を行いました!」
研究員は満面の笑みで語り出した。
「ヘビという動物の多くは、主に夜行性であります」
「え、まさかそれだけですか?」
私は思わず口を挟んだ。
「とんでもありません!」
彼は胸を張って続けた。
「口笛には人間の耳には聞き取れない高周波成分が含まれています。少しだけ唇を振るわせて息を吐くだけで、この高周波数の音が発生します。これはまさに犬笛のようなものです!つまり、ヘビもまた、人間に聞き取れない高周波音を感知できると考えられます。ですから、夜に口笛を吹けば、この音に反応したヘビが寄ってくるということなのです!」
「いや、それ仮説の域を出てないし、たぶんそれって単に夜に口笛を吹くのはうるさくて迷惑だからやめなさいって意味だと思うんですが……」
私のツッコミも空しく、さらに別の研究員が得意げに前に出てきた。
「続いて、『三人で写真を撮ると、真ん中の人が早く死ぬ』というテーマについて発表いたします!」
「……まったく聞いちゃいない」
「さて、写真を撮るとき、『はい、チーズ!』と言われた後、撮影されるまでのほんの一瞬、これは一種の生き地獄です。動いてはいけない、目が乾燥してもまばたきしてはいけない、普段はとらないよそ向けの表情を維持しなければならない、チーズって何それ美味しいの――そして、『あ、押すボタン間違えた』などと言われる日には、その苦痛たるや、察するに余りあります」
彼は真剣な表情で力説を続けた。
「三人で写真を撮るとき、真ん中の人間はこの苦痛が倍増します。なぜなら、両側の人の頭が顔にかぶさって邪魔になる上に、両側からいたずらをされることも多い。これによるストレスは相当なもので、何度も撮影を重ねるうちに、胃潰瘍や心筋梗塞の原因にもなりかねません!」
「もはや科学的でないというか……それ、単にあなたの過去の経験でしょ?」
私はあまりの馬鹿馬鹿しさに呆れつつも、完全に真剣な研究員たちを前に、どこか感心すら覚え始めていた。
「どうです、当研究所の研究成果は? 他にも、童歌『ずいずいずっころばし』は徳川の埋蔵金の在処を示しているに違いない、また、『かごめかごめ』は宇宙人が人類に残したメッセージであるという研究も進めています。伝承には驚くべき真実が隠されているのです!」
所長の熱弁は止まらない。
「あなたも今日から実践してみてはいかがです?親の死に目を見逃さぬよう夜の爪切りは決して行わず、正月には富士山と鷹とナスビが揃う初夢が見られるまで寝続ける、鬼に笑われぬよう来年のことは何があっても話さない。世界中の子供の抜けた歯をかき集めて、下の歯は屋根の上に、上の歯は縁の下に投げるべきなのです!」
「はぁ、じゃあ一つ質問していいですか?」
私は呆れつつも、こうなればもう参加していくしかないと思い、適当な迷信を思いついて尋ねてみた。
「スイカと天ぷらは食い合わせが悪いって言いますけど、なぜだかわかりますか?」
所長は困るかと思いきや、逆にうれしそうに頷いた。
「とても良い質問ですね! もちろん、そのテーマについても研究済みです。我々の調査実験では、被験者に毎日スイカと天ぷらだけを与えて一年間生活させた結果、重度の体調不良を引き起こしました」
「そりゃ無理もないでしょうね……」
「しかし、この結果はいったん置いておくとして、我々はさらに別の見解に至ったのです」
「被験者、救われませんね」
「つまり、スイカは水、天ぷらは油を象徴しています。水と油は混ざらず、熱した油に水を入れれば跳ねて危険です。つまり、この教訓はその危険性を意味しているのです」
「はぁ、それは……随分と遠回しな伝え方ですね」
所長はさらに意気揚々と続ける。
「実際には、『スイカと天ぷら』ではなく、『スイカの天ぷら』を指す可能性もあります。スイカを天ぷらにしようとすると、水分が飛び散り危険ですし、あまり旨くもない。さらに、うなぎと梅干しの組み合わせについても、うなぎにはどっちかと言うと奈良漬の方が――」
「もういいです」
私は深く息を吐いた。取材はここまでにしてもう切り上げよう。最後に一言ってやることにした。
「結局、どれもこれも、あまり論理的な繋がりもなく、なんて言うか、『風が吹けば桶屋が儲かる』的な発想ばかりですね」
「な、何ですとッ!」
私の何気ない一言が、なぜか所長を含む研究所の一同を震撼させたようだった。
「あなた、どこでその秘密を……!『風が吹けば桶屋が儲かる』は、当研究所が今まさに全力で取り組んでいる研究テーマ。この言い伝えには、人類の未来を変えるほどの真意が込められているのです! 現在、世界的なプロジェクトを立ち上げ、各国の研究機関が一丸となってこのテーマに取り組んでいます。この真意を解明できれば、ノーベル科学賞も夢ではありません!」
「いえ、それはむしろノーベル平和賞を目指すべきでは……?」
「なぜ、風が吹けば桶屋が儲かるのか。その真相を解明することで、我々は世界中の桶屋に希望をもたらそうとしているのです!」
「でも……そもそも今時、桶屋ってそんなに需要あるんですか?」
「全く、これだから素人は。桶とは木でできた容器のことだけではありません。水や食料品を入れる器、バケツ、バスタブ、たらいに洗面器……すべて桶の仲間です!」
「そういうものなんですか」
と、私はただ頷くしかなかった。
所長はさらに語気を強めた。
「そして、桶とは重大な道具ですよ! 炊事に洗濯、あらゆる生活の場面で欠かせないのです。そもそも、人類が初めて作り出した道具といえば土器ですが、それも広義には桶です。桶の発展とともに人類の文明も発達してきた。桶こそが文明のシンボルであり、人類の文化は桶の文化といっても過言ではない!」
「はいはい。桶の重要性は分かりました。でも、『風が吹けば、桶屋が儲かる』の因果関係を突き止めたとして、それが一体何の役に立つんですか?」
所長はしばらくこちらをじっと見つめながら、誇らしげにニヤリと笑みを浮かべた。
「聞きたいですか?……よろしい、これは極秘情報なのですが、特別にお教えしましょう。この言い伝えは、実は自然を操る方法を暗示しているのです」
「自然を……操る?」
「その通りです。この言い伝えの解明が進めば、我々は天候や自然災害すらも思いのままに制御できるようになるのです!」
「全く意味が分かりませんが」
「『風が吹けば桶屋が儲かる』。つまり、逆に言えば『桶屋が儲からなければ風は吹かない』ということなのです」
「対偶というやつですね」
「その通りです。対偶もまた必ず真なのです。桶屋の景気を操作することで風の強さをコントロールし、風の流れを変えられる。風を操るとは、すなわち気圧を変えること。自在に気圧を変えれば、天候を操作したり、竜巻や雷雲を発生させたりすることができるのです!」
「理論にはかなりの飛躍がある気がしますが、確かにそれはすごい話ですね」
所長は、こちらの理解に満足そうにうなずきながら続けた。
「しかし、現段階で研究はあと一歩のところで行き詰まっているのです」
「どこでですか?」
「桶屋の景気を操作する方法です。これが、予想以上に難しい……。何しろ桶は生活必需品であり、桶の需要が途絶える状況など想像できないのです」
「えっと、例えば、水がなくなれば桶は必要ないんじゃないですか?」
「いいえ、水がないときほど水は貴重です。だからこそ、桶にためておく必要性が増します!」
「じゃあ、人口が減れば桶の需要も下がるのでは?」
「いわゆる少子化など、長い目でみた人口減であれば、それに合わせて桶屋の人口も減るでしょう。個々の桶屋の景気は変わらないのではないでしょうか」
「それは難しいですね」
所長は感慨深げにうなずいた。
「まさにこれが、残された最後の難題なのです。ここさえ突破できれば、我々は莫大な富と名誉を手にすることになるでしょう!」
「なるほど、つまり、桶のいらない状況を作り出せばいいのですね。桶が必要ない生活とは……一体どんなものなんでしょうか」
「全く、そんな生活など想像もつきません」
「では、もしも『入れるべきもの』がこぼれない状況、つまり、容器が必要ない状況があれば……」
私はふと、ある考えが浮かんだ。
「そうだ、無重力状態なら桶は不要ですね。全てのものが浮いているので、桶に入れる意味がないし、そもそも入れられないでしょう」
私のその一言は、一瞬場の空気が凍りついたような静寂をもたらした。その直後、まるで稲妻でも走ったかのような驚愕が彼らの間に広がった。
「たっ、確かに! 無重力では桶が必要ない……それはつまり、宇宙だ!『桶屋が儲からない』状況とは、人類の宇宙進出を予言し、『宇宙空間』を意味していたのだ!」
「なるほど、まさにその通り!」
「そして、『風が吹かない』というのは『空気がない』ということを表していた!」
「素晴らしい!」
「ついに、長年の謎が解けた!」
「つまり、『風が吹けば桶屋が儲かる』とは、『宇宙空間には空気がない』ことを示していたのだ!」
「おおーっ!」
「大発見だ!」
「莫大な富と名誉だ!」
研究員たちは一斉に歓声を上げ、喜びのあまり飛び上がったかと思うと、すぐに静まりかえり、しばらくの沈黙の後、全員が絶望したように床に倒れ込んだ。
『そんなこと、みんな知ってるよ……』
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