第45話「戦場の理」
谷間の向こうから、不規則な足音と低いささやきが風に押し流されてくる。岩肌にぶつかって、また戻ってくる。形の定まらない音の塊が、じわじわと近づいていた。
僕は柄を握り直した。手のひらが汗で湿って、革の感触が少しだけ柔らかくなる。喉が乾く。呼吸を整えようとして、肺の奥まで冷たい空気を押し込む。──落ち着け。これは訓練じゃない。誰かが死ぬ。こちら側でない保証は、どこにもない。
「騎士団が動くなんてよ……」「いいから口閉じろ。生き残るんだ、今日はそれだけでいい」
盗賊の声が、谷間の石壁に当たって、耳の高さを変えて跳ね返る。震えを含んだ声。誰かの乾いた笑い。鎧の触れ合う音は、こちら側ではほとんど鳴らない。隊列の呼吸が揃いすぎていて、音が消えているみたいだった。
部隊長が前を向いたまま、顎だけで合図する。指示は、短く。
「間を詰める」
鎧の列が、土を踏む音を一つだけ揃えて、じわりと前に出る。盾の端がかすかに擦れて、金属が鳴く。その瞬間まで、鼓膜の内側に自分の脈だけが響いていた。
「……来るぞ」
誰かが呟いたと同時に、部隊長の号令が落ちる。
「前進。突撃」
鋼の壁が動いた。地面の砂が一斉に跳ね、盾が前列の肩口ごと押し出される。次の拍で、ぶつかる音。鈍く短い衝突音が谷間に重なって、骨の軋む高い音が続く。盾の縁が顎を跳ね上げる音、歯が砕ける音、吐息が切れる音。混ざって、どれが誰のものか分からない。
「うわっ──!?」
盗賊の驚きが一拍遅れてあがる。その口を塞ぐみたいに、槍が列の隙間から突き出された。鉄が何かを裂く湿った音。喉の奥で空気が潰れる悲鳴。谷間がそれを拡げて、戻す。
「下がれ! 下が──」
言葉は最後まで続かない。盾の裏から二の突き。足が縺れて、影が崩れる。足先が土を掻く音まで、やけに鮮明だ。
背中から熱が走った。リオンの詠唱が短くまとまり、風が地表を叩く。「押し返せ──」彼の声が裏返る寸前で、冷えた突風が谷底の砂を巻き上げ、盗賊の足を取った。前へ出ようとした体が一瞬止まる。その止まりに、前列の槍が迷いなく重なる。動きに合わせて「抜く」「踏む」「また突く」。動作が機械みたいに繋がっていく。
右斜め上から微かな弦音。エリンの矢が、相手の肩口に吸い込まれた。矢羽の震えが一瞬だけ光を拾い、盗賊の腕から剣が落ちる。乾いた金属音。倒れる前にもう一本、別の矢が足の腱に刺さって、動きを奪う。エリンの息は乱れてない。けれど指先の戻りが一度だけ遅れたのが、僕の目には見えた。
目の前。盾の端から覗いた盗賊の目と、ふっと合う。若い。血走った瞳の奥で、何かの計算が一瞬転がって、消える。彼は踵を返して逃げようとした。足場は悪くない。逃げられる速度だ。だけど列の動きが速すぎる。左右から回り込む足音。退路の口が狭くなる。背中に槍が届く距離。
「やめろ、降参だ──」
声は確かにここまで届いた。けれど、列は止まらない。槍が背中に入る。短く、深く。刺す音と、抜く音。後ろから見えたのは、肩甲骨の辺りがひと跳ねして沈む影。その口が何かを言おうとして、土をかむ。
(逃げる相手すら仕留める……)
思考がいったん空白になった。次の瞬間には、全体の前進に遅れないよう、自分も足を出していた。足裏に、踏まれた腕の骨が滑る感触がわずかにあった。嘔気が喉に上がる。押し戻す。生き残る、のは、こちら側だ。
「道を開けるな、押し込め」
部隊長の声が低く、短く、前へ押す。鎧ごと風景がせり出していく。列の波の中で、僕は自分の両手がいつもより軽いのを感じた。恐怖で力が抜けたせいか、血で滑ったせいか分からない。握り直す。柄が掌に粘り、汗と血の薄い匂いが混じって立ち上る。唇が乾く。舌が鉄の味を拾う。
「兄貴、無理だ、挟まれてる」「走れ、走れって──」
盗賊の声が、詰まって高くなる。子どもみたいな声が混じる。誰かが「母ちゃん」と言った気がした。幻かもしれない。谷間が音を奇妙に増幅して、混ぜるから。足音と悲鳴と、盾が石に擦れる音がひと塊になって、空気が震える。
前列の騎士がひとり、肩で息をした。ほんの一瞬だけ。すぐに姿勢が戻る。槍先を布で軽く拭って、また肩に構える。目に、何も宿っていないわけじゃない。ただ、揺れがない。波に乗り続ける訓練だけが、筋肉の中に残っているみたいだ。
僕の視界の端で、喉を押さえて倒れた盗賊が、足をばたつかせている。空を掴むみたいに手を伸ばして、何も掴めず、指が土をかく。背骨が反り、空気を探す口が開いて、閉じる。……目が合った。僕は動けなかった。足が、そのわずかな瞬間だけ、地面に縫い付けられた。手が勝手に突き出される映像が、頭の中にだけ走る。想像の槍が、その喉を貫く。背筋が冷たくなる。息が一つ、浅くなった。
「アルフ」
背中から低い声。リオンだ。短く名前を呼ばれただけで、足下に落ちそうだった何かが戻ってきた。僕はうなずく代わりに、ひと呼吸して前を見る。リオンの頬は青い。けれど目は逸れていない。杖の先が、肩の高さで静かに揺れている。
「右、切れ目が──」
エリンの声。弦の音が連続する。右の影の肩が弾けて、甲冑に血が散る。そこを盾が押し広げ、槍が通る。列がひとつだけ波打って、また収まる。風の向きが変わった。血の匂いが濃くなる。鉄と、温かい肉の匂い。胃が嫌がる。鼻で押さえ込む。吐いたら死ぬ。ここで吐いたら、僕は動けない。
「下がれ! 後ろ、空けっ──」
命令が命令として機能しない声。振り返った盗賊の顔に、恐怖と絶望が同時に浮かぶ。反転に遅れた足首へ、槍が滑り込む。崩れる膝。その背に、もう一本。無言。騎士は声を出さない。息だけで前へ進む。仕事の手順みたいに、ひとつずつ確実に終わらせていく。
やがて、谷間の音が少しずつ薄くなっていった。倒れた体の下で土が水っぽくなって、靴が吸い付く。悲鳴が、指の間から零れる水みたいに途切れ途切れになる。最後の一人が武器を投げた。投げた音は軽かった。彼は走ろうとした。二歩目で足が止まった。止まった理由は、たぶん、僕が見たものと同じだ。前。盾。左右。壁。──退路は、もうなかった。
終わったのは、突然だった。
部隊長が手を上げる。列の足が同時に止まる。踏みしめた脚が震えることはない。前列が盾をそれぞれの膝に立て、槍先をわずかに下げる。息だけが白く上がって、風に細くちぎれていった。
静かだ、と思った。音が完全に消えたわけじゃない。誰かのうめき、乾いた咳、甲冑の留め具が擦れる細い音。けれど、さっきまでの世界が嘘みたいに遠くなっている。耳の中の自分の鼓動が、また戻ってくる。
「戦果確認。武器を回収。負傷者、ここで処置」
部隊長の声は、淡々としていた。彼にとっては、次の段取りの確認でしかない。命令は整っている。部下たちは無言のまま従う。倒れた盗賊のそばにしゃがんで、武器を足で押しやり、手の届かない位置に放る。死体に布をかける者。まだ息のある相手の手首に手を置き、視線だけで「終わり」を伝える者。仕事の手だ。
僕は柄を立て、刃先を土に伏せた。肩が、遅れて重くなる。さっきまで振っていた重さが、急に現実に戻ってきたみたいだ。腕の外側がぴりぴりしびれる。膝が、笑いそうになる。踏ん張る。
リオンは袖で額の汗を乱暴に拭った。顔色は悪い。けれど、手は震えていない。杖の先は地面に置かれて、彼の呼吸に合わせて微かに上下するだけだ。
エリンは無言で矢を補充していた。矢筒の口に指が触れるたび、わずかに震えているのが見える。けれど、その震えはすぐに消える。弦を確かめる彼女の横顔は、固い。感情を押し込めるというより、置いていく。置き去りにする。今は、いらないものだと判断したみたいに。
若い騎士がひとり、槍先を布で拭った。血の筋が簡単に取れなくて、布を少し力強く滑らせる。赤がこびりついて、薄く広がっていく。彼は布をくるりと裏返して、もう一度拭く。終わると、槍を無造作に肩へ担いだ。顔に喜びも、安堵も、嫌悪もない。空白ではない。ただ、余計なものが削ぎ落とされている。
(生き残るためには、殺す。それは知っていた)
知識として、じゃない。孤児院で読んだ物語でも、ギルドの講習で聞かされた話でもない。今、足下に広がっているこの土に染みた血の匂いで、嫌というほど分かる。
(でも、それを迷わず徹底できる者だけが、この世界で生きて立てるんだ)
盾の内側。列の中。迷いがあっても、動きを止めない筋肉。判断に感情を混ぜない視線。そこに僕は、どこまで近づける? 近づくべきなのか? それとも、どこかで止まるのか。
部隊長が短く告げる。「前進する。このまま他の逃走路へ追い込む。隊列、再編」
空気が少しだけ動く。騎士たちが持ち場に戻る。息を揃え直す。
僕はその背中を見た。重たく、無駄がない背中。生き延びるための形に、長い時間をかけて削り出された背中。そこに並ぶとして、僕は何を置いていくんだろう。何を持っていけるんだろう。
柄を握り直す。掌の汗はもう乾きはじめていて、革の目がざらついて指に引っかかった。
「行こう、アルフ」
リオンの声は、さっきより落ち着いていた。エリンは何も言わない。ただ、わずかに頷いた。
僕は応えないまま、一歩、前に出た。足裏が血の薄膜を踏む。滑らないように、深く置く。呼吸を揃える。胸の奥で、さっきの映像がまだ何度も再生される。命乞いの口。背中に入る槍。想像の中で突いたのは、僕だ。
(慣れるのか。慣れてしまうのか。それとも──)
答えは出ない。出ないまま、列が動き出す。谷間の空気が、再び重くなる。僕は、壁の縁に肩を入れた。生き残るために。次の瞬間の、自分の選び方を、握りしめたまま。
【第45話 成長記録】
筋力:11(熟練度:84 → 85)【+1】
→ 谷間での行軍・近接戦中の槍操作による筋力微増。
敏捷:11(熟練度:66 → 68)【+2】
→ 密集隊列での位置調整、滑りやすい足場での踏み込み・回避動作の反復。
知力:11(熟練度:27 → 28)【+1】
→ 戦況の変化に応じた即時判断、味方との連携位置維持。
感覚:14(熟練度:95 → 98)【+3】
→ 谷間での足音・呼吸・弦音・気配変化を即座に察知する集中力の持続。
精神:13(熟練度:67 → 72)【+5】
→ 命乞い・負傷者・殺害の現場を直視しながらも行動を止めず、精神の揺れを抑制。
持久力:16(熟練度:57 → 60)【+3】
→ 長時間の緊張維持と連続戦闘、足場不良での動作継続による耐性向上。
【収支報告】
所持金:1,700G(変動なし)
【アイテム取得/消費】
取得:なし
消費:なし
【装備・スキル変化】
武器:スレイルスピア
防具:軽革製防具
スキル:《間合制御》
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