第20話「重みは愛、はじまりの朝」
まだ夜が完全に明けきらない頃、グラウエルの街はひんやりとした静けさに包まれていた。
眠気を振り払いながら石畳を踏みしめ、僕──アルフ・ブライトンは駐屯騎士団の訓練場へと向かっていた。
(……まだ夢ならいいのに)
そんな願いにも似た後悔が頭をよぎる。
昨日、ギルドの訓練場で出会った謎の老人──ザイラン。
彼に「明日の朝、騎士団の訓練場に来い」と言われたが、その時は冗談半分で受け流していた。
でも、何かに引き寄せられるように僕の足はここへ向かっていた。
駐屯所の門前に立っていた見張りの騎士団員に、言われた通り名前を伝えると、すぐに通してくれた。
「ザイラン殿から伺ってます。どうぞ……頑張ってください」
なぜか、労うような口調。
その目には、わずかに同情の色すら浮かんでいた。
(……ちょっと待て。なんで“頑張って”なんて言われるんだ? 訓練場に行くだけなのに)
胸の奥に、妙なざらつきが残る。
不穏だ。不穏すぎる。
通された訓練場の一角に、目当ての人物──ザイランがいた。
いや、正確には「寝ていた」。
訓練場のベンチに腰かけ、器用に首を倒して口を開けたまま、盛大に居眠りしている。
(……これが“特別軍事顧問”?)
肩透かしを食らったような気分で、僕はおそるおそる声をかける。
「……ザイランさん?」
すると、ピクリと反応して、のそのそと目を開けた。
「おぬしか、遅いのぉ。おぬしが遅いから二度寝してしもうたわい」
(僕のせいかよ!)
と心でツッコミつつも、なんとか態度を保っていると、ザイランは面倒くさそうに立ち上がり、訓練場脇の小屋に入っていく。
しばらくして戻ってきた彼の手には、コップと、沈殿した粉が底に溜まった白濁した液体。
「まずはこれじゃ。飲め」
「……なんですか、これ」
「うまいぞ。黙って飲め」
そう言って突き出されたコップを、恐る恐る受け取る。
一口飲んだ瞬間──口の中に広がる粉っぽい苦味とえぐみ。
雑巾を絞った汁の方がまだマシなんじゃないかと思えるレベル。
「……う、うわ……」
「なに渋い顔しとる! はよ飲まんか!」
ピシッ!
容赦なく僕の尻に竹の棒が走る。
「いってぇ!? ……わかりました、わかりましたからっ!」
たぶん、これは試練とか儀式とか、そういうものなんだ。
自分にそう言い聞かせながら、僕は覚悟を決めて飲み干した。
こうして、僕の“地獄の朝”は静かに──しかし確実に、幕を開けたのだった。
* * *
ミルクという名の拷問飲料を飲み干してすぐ、ザイランは訓練場の外れにある斜面を指さした。
「ほれ、あの坂を使うぞ。後ろ向きで、全力で、登ったり下りたりじゃ」
「……え、後ろ向きに?」
「聞こえんかったか? 後ろじゃ、後ろ!」
とんでもない指令に、思わず耳を疑う。
しかし、ザイランは竹の棒を構え、容赦なく地面を叩いて「はよ走らんか」と催促してくる。
言われるがまま、斜面に立ち、後ろ向きで走り出す。
(……これ、想像以上に怖いんだけど!?)
足元が見えない。バランスは取りづらい。下手にステップを踏むと、転げ落ちそうになる。
全身の筋肉がピンと張りつめ、呼吸も早くなる。
それでも、坂を何往復も繰り返すうちに、脚の裏側──太ももの裏や腰の深部が焼けるように熱くなっていく。
(きつ……! なにこの訓練……これ拷問では!?)
フォームが崩れかけたその瞬間──
「ほらほら、手ェ抜くなァ!」
ザイランの叱咤とともに、尻を撃ち抜く竹の音が飛んでくる。
「いだっ!? いまのはちゃんと走ってましたから!」
「言い訳する前に足を動かさんかい!」
もはや理屈は通じない。止まれば尻が痛い。走れば全身が痛い。
汗が顔を伝い、視界が揺れる。
心臓が苦しい。足が棒のようだ。
呼吸が荒く、唇も乾いてきた。
次の往復で足がもつれて転びかけた瞬間、ついにザイランが声をかけた。
「よし、少し休め」
僕は反射的にその場に倒れ込み、地面に大の字になる。
(死ぬ……殺される……)
口を開いても声が出ない。
ただ、肩と胸が上下に激しく波打つ。
心の中で絶叫するしかなかった。
だが、その静寂も長くは続かない。
「いつまで寝そべっておる! 背を起こせ!」
「ひぃっ……」
反射的に上体を持ち上げるが、足が震えて立ち上がれない。
「座ってるのが好きなら、これでも持って正座してみい」
そう言って渡されたのは、見た目以上にずっしりと重い鉄の棒だった。
「これを持って、地面につけずに、正座じゃ。呼吸を整えるついでに、姿勢も鍛える。重みは愛じゃ。受け止めい」
(どこが愛だ! これ完全に罰ゲームだろ!)
しかし反論は竹の棒で消される運命なので、素直に従う。
鉄棒を両手で支えながら、膝をついて正座。
たったそれだけのことが、いまは信じられないほどキツい。
腕が震える。背筋がうまく伸びない。
少しでも傾くと、容赦なく竹の棒が襲ってくる。
「おぬしはジッと休憩することもできんのか!」
(いやいや、これ休憩って呼べるの!?)
地獄のような静止時間が続いた。
どれくらい経ったのか、自分でもわからない。
そのとき、街中に朝を告げる鐘の音が鳴り響いた。
「ふむ。ちょうど良いのぅ。今日はここまでじゃ」
ザイランはそう言って竹の棒を肩に乗せ、まるで散歩帰りの爺さんのように去っていった。
「それじゃ、また明日の朝じゃの」
その言葉だけが、やけにくっきりと耳に残った。
全身から力が抜け、僕はその場にぺたんと座り込んだ。
(終わった……ほんとに終わったのか……?)
早朝の空は、すっかり明るくなっていた。
だけど、心のどこかで僕は知っていた。
(……いや、あのじいさんの言葉が本当なら、これは“始まり”だ)
* * *
ギルドへ向かう足取りは、鉛でも詰め込んだように重かった。
笑う膝をごまかしながら、なんとか街路を進む。
(……今日って、まだ朝なんだよな)
訓練が終わった安堵と、全身の倦怠感で時間感覚が狂っている。
これでようやく休める。ギルドで何か簡単な依頼でもこなして、少しでも収入を得よう──そんなふうに考えていた。
けれど、現実はもっと過酷だった。
「アルフさん、おかえりなさい。あの……指名依頼、来てます」
受付のミーナが、いつもより慎重な口調で僕に声をかける。
心配そうにこちらを見つめるその目が、すべてを物語っていた。
「……誰からですか?」
既視感。すでに嫌な予感しかしない。
「セルダム王国グラウエル駐屯騎士団から……です」
(さっき行ったばかりじゃないか!)
全身の疲労が、一気に心臓へと集まりそうになる。
思わず両手で顔を覆いたくなるのをこらえながら、なんとか声を絞り出す。
「内容は……雑用とか、ですか?」
「はい。雑用と……あと、ザイラン特別顧問の付き添い、だそうです」
胃がきしむ音が聞こえた気がした。
「ガルドさんから念押しされてて……あの、断らないようにって。ご愁傷様です」
ミーナが申し訳なさそうに、でも少しだけ笑ってそう告げた。
逃げ場はない。
僕は、重い足取りとともに再び騎士団へと向かう。
駐屯所に到着すると、ザイランはまるで待ち構えていたかのように顔を上げた。
「お、来たか」
その言い方が妙にうれしそうで、思わず眉をひそめる。
「なにがまた明日ですか!言ってくれれば、ギルドに戻らなくてもよかったのに」
「気分転換じゃ。それに、公私の区別は大事じゃろ」
(もしかして、“特別”ってのは“特別めんどう”の略なのか?)
わけのわからない理屈を押し通しながら、ザイランは軽やかに立ち上がる。
その後、命じられたのは、駐屯所の荷物整理や倉庫の掃除といった雑務。そして、ザイランの背中と脚のマッサージだった。
(……どこが特別顧問だよ。やってること、ただのジジイじゃないか)
心の中で悪態をつきながらも、言葉に出すと痛みが返ってくるので、僕はおとなしく従うしかなかった。
「文句ばかり言いよって。報酬ももらえて、鍛えてももらえる。こんな天国、ほかにあるか?」
「それ、地獄の間違いじゃないですか……」
つぶやく僕の手は、ザイランの背中を真面目に揉んでいた。
老いた身体──のはずなのに、その筋肉は驚くほどしなやかで、張りがある。
関節の可動域も広く、固さがまるでない。
「揉んでみりゃ分かるじゃろ。わしは毎日手入れを欠かさんのじゃ。鍛えるだけじゃなく、ケアも鍛錬のうちじゃぞ」
そう言いながら、ザイランは僕に簡単なマッサージの仕方や、帰ってからやるべきストレッチの方法まで丁寧に教えてくれた。
さっきまで鬼のようだったその口調が、少しだけ穏やかになっていたのが、不思議と印象に残った。
* * *
ようやくすべての任務が終わった頃には、太陽は西に傾き始めていた。
ギルドに戻って報酬を受け取り、そこから宿にたどり着くまでの道のりすら、地面が揺れて感じられるほど疲れていた。
ノネズミ亭の扉を開けると、店主のザックがカウンター越しに顔を上げた。
「……お前、生きてるのか?」
「……ギリギリ……たぶん」
僕は笑うつもりだったけど、顔の筋肉がもう言うことを聞いてくれなかった。
そのままカウンターにもたれかかるように座り込むと、ザックが肩をすくめながら聞いてきた。
「で、また明日も朝から出動か?」
「ええ。だから……明日食べる用のパンか何か、ありますか?」
ザックはしばし無言で僕を見たあと、面倒くさそうにため息をついた。
「……あとで簡単なもん作っといてやるよ。朝、持ってけ」
「ありがとうございま──」
喉がかすれて、言葉にならなかった。
「もちろん、料金はもらうからな」
その言葉に、僕はかすかに笑ってうなずいた。
そのやりとりが、どこか救いに思えた。
その後、部屋に戻り、備え付けの洗面台で顔だけ洗って、倒れ込むようにベッドに身を投げた。
でも、ザイランの言葉が頭をよぎる。
『鍛えるだけじゃなく、ケアも鍛錬のうちじゃぞ』
仕方なく、腕や脚、背中を軽く伸ばし、今日教わったストレッチをひととおりこなす。
もはや意識も半分飛びかけていたけれど、なんとか最後まで終えると、そのままベッドに倒れ込んだ。
(……ああ、明日もあるんだった)
そう思った瞬間、意識が闇に引きずられるように沈んでいった。
その夜は、
夢も見なかった。
【第20話 成長記録】
筋力:10(熟練度:99 → 100)→ 11(熟練度:10)(+11)
→ ザイラン式の地獄訓練によって筋肉制御が臨界
敏捷:10(熟練度:88 → 91)(+3)
→ バランスの崩れやすい後ろ向き坂道走行
知力:10(熟練度:75 → 78)(+3)
→ 訓練理論を理解しようとする姿勢、ストレッチ習得と実践の知識蓄積
感覚:12(熟練度:92 → 95)(+3)
→ 姿勢保持訓練時の体重・筋肉感覚制御
精神:12(熟練度:46 → 53)(+7)
→ 強烈な身体訓練と理不尽への耐性、翌朝再挑戦を覚悟した内面成長
持久力:15(熟練度:47 → 54)(+7)
→ 早朝から晩まで続く重労働と鍛錬、訓練による持続耐久力の底上げ
【収支報告】
現在所持金:649G
内訳:
・前回終了時点:577G
・依頼報酬:+90G
・朝食:−0G(抜き)
・昼食:支給(無料)
・夕食(ノネズミ亭):−8G
・宿泊費:−10G
【アイテム取得/消費】
・なし
【装備・スキル変化】
武器:スレイルスピア
スキル:未開花
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