第5話「港の風と二つの依頼」
朝の空気は、少し湿気を含んでいた。どこかひんやりとした石畳を踏みしめながら、僕──アルフ・ブライトンは、まだ人通りの少ない通りを歩いて、いつものように冒険者ギルドへ向かっていた。
昨日は灯台の清掃依頼を見かけていたが、高所作業とあって手を出すかどうか迷っていた。でも、レオンの散歩で足の調子も良くなってきたし、そろそろ身体を慣らすにはいいタイミングかもしれない。
「おはようございます、アルフさん」
ギルドに入ると、受付のミーナさんがいつも通りの柔らかな笑顔で出迎えてくれた。
「おはようございます。今日も一件、働きにきました」
「ふふ、真面目ですね。昨日のレオンくんの散歩、引き続きお願いできますか?」
「はい、今日も行きます。あと……この『灯台の階段清掃』、受けてみようと思います」
ミーナが一瞬目を丸くし、すぐに微笑んだ。
「高所、大丈夫ですか?」
「少し怖いですが……まあ、怖いからこそ慣れるしかないかなと」
「わかりました。では、清掃と散歩、二件ですね。スタンプを押しておきます」
依頼票を受け取り、僕は軽く礼をしてギルドを後にした。
まだ日は昇りきっていないけれど、町の通りにはパン屋の甘い香りと、水撒きされたばかりの石畳の匂いが混ざっている。
グラウエルの東端にある港エリア──僕の住んでいる界隈やギルドとは少し距離があるせいで、訪れるのはこれが初めてだった。
今日は、その“いつもと違う一角”へ、少しだけ足を伸ばしてみることにした。
……灯台って、どれくらい高いんだろう。いや、見上げなきゃ怖くないかもしれない。落ちなきゃ大丈夫、落ちなきゃ。
自分にそう言い聞かせながら、靴紐をきゅっと締め直す。
* * *
港の灯台は、グラウエルの東端にぽつんと佇んでいた。
古びた石造りの塔は、ところどころに苔や潮風の跡を残していて、近づくだけで歴史の重みを感じる。管理局の係員に挨拶を済ませ、ほうきと雑巾、バケツを受け取って作業に取りかかる。
螺旋階段は、思ったよりも狭くて急だった。
(……うん、高い。見下ろしたらアウトだな)
自分にそう言い聞かせながら、下から順番に一段ずつ丁寧に掃いていく。
作業の途中、窓から差し込む光の先に、ちらりと見えたのは青く広がる海だった。
波の音。潮の香り。遠くに浮かぶ小さな漁船。海鳥の鳴き声。
(いつもは町の中ばかりだからな……こういう景色、久しぶりかも)
少しの間、手を止めて見惚れてしまう。
と、その瞬間。
「……え」
ひゅ、と風を切る音。
上空からふわりと降ってきた影が、ついさっき掃除を終えたばかりの段に──白い飛沫となって落ちた。
「……カモメめぇぇ……」
絞り出すような声でぼやきながら、僕は再び雑巾を取り直す。
(きっとこれは“試練”だ。……うん、きっとそう)
そんな風に言い訳をしながら、階段の一番上にたどり着いたとき、目の前に広がったのは、文字通り360度の大海原だった。
空と海の境界が溶け合って、遠くの水平線まで霞んでいる。
しばらくその場で、風に吹かれながら立ち尽くしていた。
「……すげぇな」
そんな感想しか出てこなかったけれど、胸の奥に何かがすっと入ってくる気がした。
そして気がつけば、また一歩だけ、この世界に馴染んだような気がしていた。
* * *
港管理局で作業報告を済ませると、時計塔の針はすでに午後の後半を指していた。
「ちょっと押したな……」
早めの夕食として振る舞われた魚スープは、白身魚の旨味がしっかりと染み出していて、疲れた体にじんわりと染み込んでいく。
普段、硬いパンと薄いスープばかりの生活をしている僕にとっては、これはほとんどご馳走だった。
(うん、これは……うますぎる……! 何これ、魚ってこんなにうまかったっけ……!?)
名残惜しさでスプーンを置く手が止まりかけたが、ちらりと時計塔の針を見て現実に戻る。
(……ああもう、今このスープに人生を捧げたい。でもレオンが待ってる!)
……せめて持ち帰り用があればな。いや、冒険者バッグにスープは無理か。
スープを飲み干すと同時に、僕は椅子から立ち上がった。
急ぎ足で港を離れ、レオンの元へと向かう。町の通りには夕暮れが差し込み始め、石畳が少しだけ黄金色に染まり始めていた。
少し息を切らしながら依頼先の家にたどり着くと、玄関先でレオンがすでに座って待っていた。時間が押していたせいか、鼻をぴくぴくさせてこちらを見つめている。
「悪い悪い。ちょっと海の上から帰ってくるのに時間かかってさ」
言い訳まじりに声をかけると、レオンは「ふん」と短く鼻を鳴らした。
リードを受け取って歩き出す。夕方の散歩道には涼しい風が吹き抜けていて、港での汗もすっと引いていくようだった。
「灯台ってさ、思った以上に高いんだよ。おまえ登ったことある? ……ないか。さすがに」
黙って歩くレオンに、話しかけては自分で答えて、そんなやりとりに自然と笑みがこぼれる。
石畳を踏みしめるたびに感じていた足の違和感も、今日はほとんど感じない。
(少しずつだけど、ちゃんと前に進めてる気がするな)
そう思った瞬間、レオンがこちらを一度ちらりと見て、すぐ前を向いて歩き続けた。
「……わかってんのか、おまえは」
僕は苦笑して、少しだけ早足で追いついた。
* * *
散歩の終盤、ゆったりと歩くレオンの横で、僕はふと空を見上げた。
夕暮れの茜色が、町の屋根の端を静かに染めていた。
レオンが立ち止まり、こちらをちらりと見上げる。
「ん? ああ、大丈夫。ちゃんと今日も歩ききったさ」
そう言って頭を撫でようとしたけれど、すっとかわされてしまった。
「……なんだよ。ちょっとは感謝してもいいと思うんだけどな」
そんなふうにぼやきつつ、僕はリードを返し、今日の仕事を終えたことに胸を撫で下ろす。
ギルドに戻ると、受付にはまだミーナさんがいて、僕を見て軽く手を振ってくれた。
「おかえりなさい、アルフさん。灯台も散歩も、無事終わりましたか?」
「はい、なんとか。港飯は……最高でした」
「それは何よりです。きっとレオンも満足してるでしょうね」
報告書にサインをし、スタンプを押してもらって、今日の業務は終了となった。
ギルドを出て、宿に向かう道すがら、ふと足元に意識を向けてみる。
昨日までは痛みが残っていた足首が、今日はもう、ほとんど何も感じない。
(……やっと、本調子に戻ってきたか)
そう思った瞬間、なんだか心まで少し軽くなった気がした。
「灯台も登って、散歩もして、飯も食って……なんだかんだで、今日も一日バタバタだったな」
ぽつりと独り言を呟きながら、少しだけ早足になった。
明日もきっと、似たような日になる。
でも──それも、悪くない。
そんなふうに思えるだけで、なんだか今日は、いい一日だった気がした。
宿に戻って扉を開けると、変わらない薄暗さと、わずかに湿った木の匂いが迎えてくれた。
いつもの狭いベッドに腰を下ろしたとき、その硬さすら今日は妙に心地よく感じる。
「……明日は、もう少し静かだといいな」
そう呟いて、僕はゆっくりと目を閉じた。
【第5話 成長記録】
- 筋力熟練度:43 → 46(+3)
→ 灯台階段の清掃での全身運動、バケツや掃除道具の持ち運び
- 敏捷熟練度:14 → 19(+5)
→ 螺旋階段でのバランス制御、レオンとの再散歩による歩調調整
- 知力熟練度:6 → 8(+2)
→ 高所への安全配慮と段取り、報告業務の処理
- 感覚熟練度:18 → 23(+5)
→ 港での風や波音・景色の観察、レオンの微細な反応の把握
- 精神熟練度:40 → 53(+13)
→ 高所恐怖への挑戦、孤独な作業をやり遂げた達成感、散歩の継続意志
- 持久力熟練度:57 → 70(+13)
→ 灯台昇降運動+夕方の散歩継続による肉体的消耗への適応・回復の確信
【収支報告】
現在所持金:416G
内訳:報酬90G(灯台60G+レオン30G)/朝食 -2G/夕食 -1G(りんご)/宿泊費 -10G
【アイテム取得/消費】
なし
【装備・スキル変化】
武器:木の棒(継続使用)
スキル:未開花
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