花の誘い-3/4
ジアが古文書に希望の糸口を見出してから、数日が経過した。しかし、解読は困難を極め、作戦司令室には焦燥の色が濃くなっていた。敵が動くのが先か、こちらが謎を解くのが先か。その、張り詰めた時間との競争の最中に、その『答え』は、最悪の形で、敵の方から街の門を叩いたのだ。
現れたのは、一人の、使者を名乗る男だった。
男は、武装していなかった。その身なりは、どこかの貴族に仕える文官のように、非の打ち所なく整っていた。彼は、街の門の前に立つと、威圧するでもなく、脅すでもなく、ただ、一枚の、豪奢な紋章が刻印された羊皮紙を、フィナへと丁重に差し出した。
「花の街の代表、フィナ殿に、我が主君より、正式なる『決闘裁判』の申し入れである」
決闘裁判。その、あまりにも古風で、そして場違いな言葉に、フィナは眉をひそめた。それは、国家間の領有権問題や、騎士の名誉に関わる重大な紛争を解決するために、古来より伝わる、極めて神聖な儀式。しかし、なぜ、それが今、この街に?
使者の男は、フィナの疑問を見透かしたかのように、言葉を続けた。 「貴殿らの街が、先の王国との一件以来、いずれの国家にも所属していない『独立地域』であるという主張。その真偽を、神々の御前で、そして大陸の諸侯が見守る中で、はっきりと証明していただきたい。…もし、貴殿らの主張が真実であり、かつ、この裁判に勝利したのであれば、我が主君は、貴殿らの完全な独立を承認し、その証人となることを、ここに約束しよう」
その提案は、一見すると、この上なく寛大で、そして公正なものに聞こえた。王国からの理不尽な干渉に苦しむ街にとって、「完全な独立」の承認は、喉から手が出るほど欲しいものだ。しかし、フィナと、彼女の背後で話を聞いていたジアは、その甘い言葉の裏に、巧妙に隠された毒の存在を、即座に見抜いていた。
これは、罠だ。
武力で街を制圧するのではなく、「裁判」という、誰もが否定できない神聖な儀式を隠れ蓑にして、この街を合法的に乗っ取るための、あまりにも狡猾な策略。そして、その背後にいるのは、間違いなく、あの虫の武装を作り上げた、知能の高い敵。
フィナは、冷静さを失わずに、使者へと問い返した。 「…その決闘、受けて立つと申し上げたら、どのような形式で行われるのか、お聞かせ願えますか?」
使者は、待っていましたとばかりに、口の端に、微かな笑みを浮かべた。 「形式は、一対一の決闘。貴殿らの街から、最強の代表者を一人。そして、我が主君の軍勢からも、最強の戦士を一人。互いに、命を賭して戦い、生き残った者の主張を、神々の意志として受け入れる。…古来より伝わる、最もシンプルで、最も神聖なやり方だ」
その言葉を聞いた瞬間、フィナの背後にいた仲間たちの間に、緊張と、そして、わずかな安堵の空気が流れた。一対一の決闘。それならば、勝機はある。この街には、フィルがいる。あのアロンソすら凌駕するかもしれない、規格外の力を持つ少年が。彼さえいれば、どんな強敵が相手であろうと、負けるはずがない。
しかし、フィナとジアだけは、その安易な希望に、戦慄を覚えていた。敵が、これほど単純な条件を提示してくるはずがない。その裏には、必ず、こちらの最強の駒であるフィルを無力化するための、何らかの仕掛けが隠されているはずだ。
数日後、決闘裁判の舞台となる、街の外れの平原には、物々しい雰囲気が漂っていた。大陸の諸侯や貴族たちが、この奇妙な裁判を見届けようと、それぞれの紋章を掲げた観覧席を設けている。その中央、最も豪華な天幕の中に、今回の裁判の主催者である「強敵」が、その姿を現した。
その出で立ちは、先日フィルたちが「処理」した元締めと、酷似していた。黒曜石のような蜜猟の甲殻を加工した鎧。無数の翅を編み込んで作られた外套。そして、巨大な虫の頭部を模した、禍々しい兜。しかし、その男から放たれる威圧感は、あの元締めとは比較にならないほど、重く、そして冷徹だった。彼こそが、この組織の真の指導者。
男は、兜の中から、ねっとりとした、しかし妙に明瞭な声で、フィナたちへと語りかけた。 「花の街の者たちよ、よくぞ来た。この神聖なる場において、貴殿らの勇気と独立の意志を、存分に示してもらおう」
その言葉とは裏腹に、彼の複眼を模した兜の奥の瞳は、まるで値踏みをするかのように、街の仲間たち一人ひとりを見定めている。そして、彼の視線が、フィルの前で、ぴたり、と止まった。
「ほう…」
男は、わざとらしく、感心したような声を上げた。 「彼が、かの有名なフィル殿か。パリの一件では、王国の騎士団を相手に、獅子奮迅の働きを見せたと聞く。その勇名は、我が耳にまで届いておるぞ」
その言葉には、賞賛の色など微塵もなかった。あるのは、獲物を見つけた捕食者のような、冷たい好奇心だけ。男は、フィルの小さな身体を、頭の先からつま先まで、じっくりと眺め回すと、満足げに頷き、そして、決定的な一言を放った。
「して、その勇名を轟かせた少年は、どこにいる? まさか、この神聖な決闘裁判を前にして、自分が『子供』だからと、恐れをなして逃げ出したわけではあるまいな?」
その、あまりにもあからさまで、そして悪意に満ちた挑発。それは、フィル個人に向けられたものではない。この街の最強の戦士が、ただの子供であり、このような公的な場に出ることすら許されない未熟者であると、集まった諸侯たちの前で、印象付けるための、計算され尽くした揺さぶりだった。
フィルは、その言葉に、カッと頭に血が上り、一歩前に出ようとした。しかし、その肩を、フィナが、強い力で、しかし静かに押さえた。彼女は、決して表情を崩さず、毅然とした態度で、男へと向き直る。
「我らが代表は、ここに。彼の勇気と力を、疑う者など、この街にはおりません」
しかし、男は、待っていましたとばかりに、その兜を、ゆっくりと横に振った。 「いや、疑っているわけではない。むしろ、その力を、大いに評価している。…だからこそ、だ」
彼は、懐から、古びた、分厚い法典を取り出した。 「この決闘裁判は、古来より伝わる神聖な儀式。その最も古い法典によれば、代表として剣を取る者は、成人と認められた者でなければならない、とある。これは、未熟な子供を、無用な流血から守るための、神々の慈悲だ。…まさか、貴殿らが、この神聖な法を、破るとは言うまいな?」
その言葉に、フィナは、息をのんだ。やられた。敵は、フィルの力を恐れ、そして、彼がまだ子供であるという、唯一にして最大の弱点を、完璧に突いてきたのだ。武力ではなく、「法」という、絶対に覆すことのでない力で、フィルを、この戦いの舞台から、完全に排除したのだ。
アロンソが、その卑劣なやり口に、怒りのあまり、クレイモアの柄に手をかけようとする。しかし、男は、それをあざ笑うかのように、言葉を続けた。 「もちろん、彼以外の者が出るというのであれば、我々はそれを止めはしない。…もっとも、あの『少年英雄』を欠いたこの街に、我が最強の戦士と渡り合える者が、果たしているのかどうか。見物だな」
その場にいた、誰もが理解した。これは、決闘ではない。フィルという最強の駒を封じられた街が、なすすべもなく、一方的に蹂躙されるのを見せつけるための、公開処刑なのだと。
フィルの不在。その、あまりにも重い現実が、仲間たちの心に、暗く、そして冷たい絶望の影を、落としていった。
フィルの不在。その、あまりにも重い現実が、街の仲間たちの心に、暗く、そして冷たい絶望の影を落としていた。決闘裁判の舞台となる平原には、大陸の諸侯や貴族たちが、まるでこれから始まる公開処刑を心待ちにするかのように、好奇と侮蔑の入り混じった視線を向けている。天幕の中に鎮座する、虫の鎧を纏った強敵は、兜の奥で、満足げに笑っていることだろう。最強の駒を封じられた花の街が、なすすべもなく屈辱にまみれる様を、彼は確信していた。
しかし、彼は、致命的な見誤りを犯していた。 この街の真の強さが、ただ一人の少年の、規格外の戦闘能力だけに支えられているわけではないということを。
絶望的な沈黙を破り、凛として一歩前に進み出たのは、フィナだった。彼女が、この決闘裁判における街の代表者だった。彼女の表情には、悲壮感も、怒りも浮かんでいない。ただ、どこまでも澄み切った、湖面のような静けさだけが広がっていた。その姿は、むしろ、これから始まる戦いを楽しんでいるかのようにも見え、強敵の、そして観衆たちの、意表を突いた。
「決闘の代表者は、私、フィナが務めさせていただきます」
その、鈴の鳴るような、しかし決して折れることのない声が、平原に響き渡る。強敵は、兜の奥で、わずかに眉をひそめた。少年が出てこない以上、誰が出てこようと結果は同じ。そう高を括ってはいたが、目の前に立つ女の、あまりにも堂々とした態度に、彼は、ほんの僅かな、計算外の違和感を覚えていた。
「ほう、女が出張るとはな。よほど、この街には男がいないと見える」
強敵の、嘲笑を含んだ言葉。しかし、フィナは動じない。 「ええ。ですが、ご心配なく。あなた様を、退屈させることはないと、お約束いたしますわ」
フィナが、優雅な仕草で、胸元に挿していた一輪の花に、そっと指先で触れた。その瞬間、彼女の身体から、甘く、そしてどこか心を落ち着かせるような、不思議な花の香りが、ふわりと周囲に漂い始めた。その香りは、フィナが特別に調合した、人の心を穏やかにし、正常な判断力を、ほんの僅かだけ、麻痺させる効果を持つ花の匂い。それは、この裁判を見守る諸侯たちの、過剰な敵意や好奇心を和らげ、場の空気を、わずかに自分たちの有利な方へと傾けるための、彼女の、見えざる第一手だった。
そして、フィナが、その卓越した弁舌と、花の香りを武器に、裁判の場で強敵を惹きつけている、その裏側。街の他の女たちもまた、それぞれが、この絶望的な状況を覆すための、命がけの「駆け引き」を開始していた。
ジアは、裁判の舞台から少し離れた、予備の天幕の中にいた。彼女の前には、強敵が「証人」として雇ったのであろう、一人の、見るからに気の弱そうな商人の男が、震えながら座っている。彼は、この後の裁判で、花の街が、いかに無法で、危険な独立組織であるかを、嘘偽りを並べ立てて証言する役目を負わされていた。
ジアは、その男に、にっこりと、しかし目の奥は一切笑っていない、彼女ならではの笑みを向けた。 「…大変ね、あなたも。あんな、虫の化け物みたいな奴に雇われて、命じられるがままに、嘘をつかなくちゃいけないなんて」
その、全てを見透かしたような言葉に、男の肩が、びくりと跳ねる。ジアは、その反応を見逃さず、さらに言葉を続けた。 「あの男は、あなたが用済みになったら、どうするかしらね? 秘密を知る証人を、生かしておくと思う? …思わないわよね」
ジアは、ゆっくりと立ち上がると、男の耳元で、悪魔のように、しかし、あまりにも魅力的な提案を、囁いた。 「だから、取引しましょう。あなたは、この後の裁判で、雇われた通りに嘘をつくのではなく、全てを、ありのままに話すの。自分が、あの男に、金で雇われ、偽証を強要されたという、その真実をね」
男が、血の気の引いた顔で、首を横に振る。そんなことをすれば、殺される、と。 しかし、ジアは、その反応すら、読んでいた。
「大丈夫よ。その代わり、私が、あなたに『未来』をあげる。私の父は、この大陸でも有数の、海軍の将校。その保護のもと、あなたを、誰も知らない、遠い国の、安全な港町へと、移住させてあげる。新しい名前と、新しい人生。あの男の、手が届かない場所へ。…さあ、選んで? あの男に使い捨てにされて、ここで野垂れ死ぬか。それとも、私の手を取って、新しい人生を始めるか」
それは、脅しではなかった。ただ、二つの未来を天秤にかける、冷徹で、そして究極の選択。男の瞳に、絶望と、そして、ほんの僅かな希望の光が、揺らめいていた。
ジアが、証人を懐柔している、その同時刻。リミナは、誰も気づかないうちに、強敵の、私的な荷物が置かれている天幕の中へと、猫のように、しなやかに、忍び込んでいた。彼女の目的は、一つ。強敵が、その力の象徴として身につけている、あの禍々しい「武装」の一部を、奪い取ること。
彼女の目は、厳重に警備された武具棚ではなく、その隅に、無造作に置かれた、一つの小さな木箱に向けられていた。彼女の商人としての勘が、あの箱の中にこそ、敵の「油断」があると告げていたのだ。彼女は、見張りの兵士たちの意識が、フィナのいる裁判の舞台へと集中している、その僅かな隙を突き、音もなく、その木箱を手元へと引き寄せた。
箱の中に入っていたのは、予備のものと思われる、蜜猟の甲殻を加工して作られた、一対の「篭手(こて)」だった。それは、強敵の権威と力を示す、重要な装飾品の一部。リミナは、懐から、全く同じ形をした、別の篭手を取り出した。それは、この数日間、彼女とカンナが、徹夜で作り上げた、完璧な「偽物」。本物と見分けがつかないほど精巧に作られているが、その内部には、カンナが仕掛けた、ある「仕掛け」が施されていた。
リミナは、息を殺しながら、素早く、その二つの篭手をすり替える。そして、本物の篭手を懐にしまうと、何事もなかったかのように、その場を静かに立ち去った。彼女の、あまりにも大胆不敵な「仕事」に、気づいた者は、誰もいなかった。
そして、その全てを、ラヴェルが、影の中から見届けていた。彼女は、ベルを連れて、街を離れていたはずだった。しかし、彼女は、戻ってきていたのだ。ベルを、メルリウスが見つけた、安全な隠れ家へと預け、ただ、この街の危機を、仲間たちの戦いを、黙って見過ごすことなど、できなかったから。彼女の役割は、この、女子組が仕掛ける、複雑な計略の裏で、万が一、彼女たちの動きに気づき、それを妨害しようとする者が現れた場合に、その者を、誰にも知られることなく、完全に「無力化」することだった。
彼女は、物陰に潜み、ただ、静かに、その時を待つ。もし、誰かが、ジアの天幕に、あるいはリミナの忍び込んだ天幕に近づこうものなら、彼女は、音もなくその背後に回り込み、その巨大な盾で、相手の意識を、静かに、そして確実に、刈り取るだろう。彼女は、この駆け引きの、最後の、そして最強の「保険」だったのだ。
フィナが時間を稼ぎ、ジアが敵の土台を崩し、リミナが未来の屈辱を仕込み、そして、ラヴェルがその全てを守る。 強敵が、フィルの不在を確信し、勝利の笑みを浮かべていた、その時。 水面下では、花の街の女たちによる、恐ろしく、そして、あまりにも鮮やかな、反撃の計略が、着実に、そして完璧に、進行していたのだった。
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