宵が明くまで・・・(以下略)-2/6
ラヴェルがベルを抱え、西の門から旅立っていく。その小さな、しかしあまりにも頼もしい後ろ姿を、仲間たちは言葉もなく見送った。彼女が完全に視界から消え去ると、フィナはすぐに踵を返し、自らの持ち場へと戻っていく。感傷に浸っている時間はない。ラヴェルが信じて託してくれたこの街を、一刻も早く立て直さなければならない。その決意が、残された者たちの間にも静かに伝播し、それぞれが再び槌を、スコップを、あるいは武器を手に取った。
街には、再び再建のための槌音が響き始める。しかし、その音の裏で、誰にも感知できないはずの「異変」が、既に始まっていた。
メルリウスは、再建の輪から一人外れ、街の外周を縁取る巨大な樹の根元に、静かに佇んでいた。彼は、目を閉じ、その掌をごつごつとした樹皮にそっと触れさせている。植物を深く理解する彼は、その根を通じて、大地が発する微細な悲鳴を聞き取っていた。先の蜜猟の襲来とは、明らかに質の違う振動。それは、無数の軍靴が、寸分の狂いもなく隊列を組んで大地を踏みしめるような、冷たく、無機質な律動だった。
風向きが変わる。森の方角から吹いてくる風には、土や草花の匂いが混じっていなかった。代わりに、鉄が錆びる匂いと、何かを燻したような、化学的な悪臭が微かに含まれている。その風に触れた樹の葉が、まるで毒に侵されたかのように、その縁から僅かに丸まっていくのを、メルリウスは見逃さなかった。
新たな脅威。それも、自然の摂理から外れた、純粋な破壊のためだけに組織された軍勢。彼は、その正体を悟ると、ゆっくりと目を開けた。その瞳には、驚きも恐れもない。ただ、自らの庭を荒らしに来た害虫を駆除する庭師のような、冷徹な静けさだけが宿っていた。
この敵は、アロンソの剛勇や、フィルの奇策、フィナの戦術といった、仲間たちの力を以て対処すべき相手ではない。彼らを巻き込めば、その消耗は計り知れない。そして何より、これから自分が振るう力は、あまりにも異質で、仲間たちに見せるべきものではなかった。
彼は、フィルの元へと向かった。フィルはリミナと共に、フィナの指示通り、散り散りになった花弁を肥料にするための一角に集めている。その懸命な作業に、メルリウスは声をかけた。
「この先は、私の仕事だ」
その声は穏やかだったが、有無を言わせぬ響きを持っていた。彼は、街の外、新たな脅威が潜む森の方向を顎で示す。
「私が、押さえる。だから、ここはフィル、お前に任せる」
それは、問いかけではない。全幅の信頼を置いた、指揮権の委譲。フィルは、その言葉の真意を即座に理解した。師が、たった一人で、次の巨大な嵐に立ち向かおうとしている。その覚悟を受け取り、彼は泥に汚れた手で、強くスコップを握りしめた。
メルリウスは、もう何も言わない。ただ、フィルの肩を一度だけ軽く叩くと、身を翻し、東の門へと、静かに、しかし確かな足取りで歩き去っていった。
メルリウスが東の門の向こうへと消え、その姿が完全に見えなくなるまで、フィルはただ一点を、身動きもせずに見つめていた。先ほどまで師が立っていた場所には、もう誰もいない。しかし、その空気には、彼の言葉の重みが、まるで物理的な質量を持ったかのように、ずしりと残っていた。
『ここはフィル、お前に任せる』
それは、命令だった。そして、あまりにも大きな信頼の証だった。街の再建を指示するフィナの声、カンナが振るう槌音、仲間たちのざわめき。それらの音が、急に遠くなる。フィルの世界は、今、自分に託された「街を守る」という、たった一つの責任だけで満たされていた。
彼は、ゆっくりと自分の手のひらを見つめた。泥と花弁の汁で汚れ、先の戦闘の反動で微かに震えている。この手で、守り切れるのか。花の魔術師、剣の達人、そして自分たちが「師匠」と呼ぶ、あの規格外の存在が抜けた穴を、この小さな手で、埋めることができるのか。傍らに立てかけたスコップが、今はただの、あまりに頼りない鉄と木の塊に思えた。
無理だ、と本能が叫ぶ。メルリウスが一人でなければ抑えられないほどの脅威が、今まさにこの街へと迫っている。その事実が、鉛のように重く彼の心に沈み込む。恐怖が、彼の足元から這い上がってくるようだった。
しかし、その恐怖を打ち消したのは、他でもない、メルリウス自身の姿だった。フィルは、去り際の師の背中を思い出す。そこには、悲壮感も、焦りも、一切なかった。ただ、庭師が自らの庭を手入れしに行くような、絶対的な自信と、静かな日常の空気があった。
そうだ、とフィルは思う。師匠は、自分たちが負けることなど微塵も考えていない。だからこそ、この街を自分に「任せた」のだ。それは、試練であると同時に、お前ならできる、という師からの信頼そのもの。その信頼を、裏切ることなど、できるはずがなかった。
フィルの手の震えが、ぴたりと止まった。
彼は、顔を上げる。その瞳には、もう迷いも、恐怖もなかった。彼は、今まで杖のように寄りかかっていたスコップを、その柄が軋むほど、強く、強く握りしめた。それはもはや、土を掘るための道具ではない。この街を、仲間たちを、そして師匠が信じてくれた自分自身を守り抜くための、覚悟の象徴だった。
彼は、共に花弁を集めていたリミナへと向き直り、そして、広場で作業する仲間たち全員に聞こえるよう、力強く叫んだ。
「師匠が押さえてくれている間に、僕たちが街を守るんだ!」
その声に、槌音を響かせていたカンナが、汗を拭いながら振り向いた。高台のオリヴァーが、地図を広げていたフィナが、一斉にフィルへと視線を向ける。彼らは見た。そこに立っているのが、ただの小柄な少年ではないことを。師から街を託され、その重責を真正面から受け止めて立つ、一人の「指揮官」の姿を。
仲間たちの間に、無言の、しかし力強い意志が交錯する。フィルの決意は、彼ら全員の決意となった。
フィルは、もう立ち止まらない。彼はスコップを担ぎ直し、カンナが作業する防壁の方角を指差した。
「リミナ、こっちの区画の花は任せる! 僕はカンナさんの所へ行く! 防衛設備の配置を、もう一度根本から見直すぞ!」
その背中は、師であるメルリウスと比べれば、あまりにも小さく、頼りないかもしれない。しかし、その一歩一歩には、この街の未来の全てが、確かに託されていた。
フィルの叫びは、街全体に新たな意志を吹き込んだ。師から託された重責を、彼は一人で背負い込んだのではなかった。その決意を、仲間たち全員が、自らの決意として共有したのだ。メルリウスという絶対的な盾が、今この瞬間も自分たちのために戦ってくれている。その信頼が、彼らを絶望の淵から引き上げ、次なる戦いへと突き動かしていた。
フィナは、広場に広げられた地図を前に、指揮官としての役割を完璧に遂行していた。彼女の冷静な声が、的確に指示を飛ばす。 「カンナ、西側の防壁の修復を最優先で。敵はそこが最も手薄だと知っているはず。ただ塞ぐのではなく、あえて侵入経路を限定させるような形で再建して」 「ジア、調達してきた武器の分配を。火薬は貴重品よ、無駄弾は許されない。オリヴァーには、威力の高い特殊な矢を優先的に回して」 彼女の言葉には一切の迷いがない。戦術の全てが、彼女の頭の中では既に組み上がっているのだ。
その指示を受け、カンナは破壊された防壁の前で、一人、黙々と作業を続けていた。彼女の細身の腕が、巨大な石材を軽々と持ち上げ、寸分の狂いもなく積み上げていく。その瞳に宿るのは、虫に対する純粋な憎悪。その憎しみが、彼女の身体に人間離れした力を与えていた。彼女が振るう槌音は、ただの作業音ではない。来るべき敵に対する、彼女の怒りの表明そのものだった。
遥か高台の監視塔では、オリヴァーが膝をつき、毒矢の製作に集中していた。彼の指先は、かつて膝を砕かれた時の震えを、今はもう見せてはいない。ラヴェルが残していった、麻痺性の高い花の汁を、彼は一本一本の矢尻に、祈りを込めるように丁寧に塗り込んでいく。彼の役割は、遠距離から敵の急所を確実に射抜くこと。その一射が、仲間たちの命運を分けることを、彼は誰よりも理解していた。
そして、街の倉庫では、ジアが海賊船から調達してきた物資の仕分けを行っていた。彼女の目の前には、火薬や武器の他に、予想だにしなかったものが山と積まれている。それは、驚くほど質の高い、応急処置のための道具一式だった。
「…なんなのよ、これ…」
ジアは、綺麗に洗浄され、消毒用のアルコールまで添えられたメスや縫合針を手に取り、思わず呟いた。海賊たちが使っていたとは思えないほど、衛生的で、専門的。まるで、熟練の外科医が使う道具だ。彼らは、独自に高度な医療技術を確立していたのだ。
その事実が、ジアにある一つの恐ろしい確信をもたらした。彼らは、なぜこれほどの準備をしていたのか。それは、これほどの道具がなければ、生き残れないほどの脅威から、逃げていたからに他ならない。金よりも、命よりも、優先すべき恐怖。その正体は、メルリウスが今まさに一人で対峙している、あの計り知れない敵なのだ。ジアは、仕分けた医療品をスレアの元へ届けながら、来るべき戦いの苛烈さに、改めて身を引き締めていた。
街の誰もが、それぞれの持ち場で、迫りくる嵐に備えていた。その静かで、しかし確かな営みは、メルリウスという絶対的な守護者への信頼によって支えられている。彼の行動の真意を誰も知らない。だが、彼がそこにいるという事実だけで、彼らは自らのなすべきことに集中できるのだ。街は、静かに、しかし着実に、次の戦いへの牙を研いでいた。
陽が傾き、街が長い影に覆われ始める頃、あれほど喧噪に満ちていた再建の槌音は、次第に数を減らし、やがて静寂が訪れた。しかし、それは疲弊や諦めからくる静けさではなかった。来るべき夜と、それに続くであろう嵐の前の、息を潜めるような、研ぎ澄まされた静寂だった。
街の誰もが、メルリウスの行動の真意を詳しくは知らない。彼が今、どこで、どのような敵と、いかにして戦っているのか。その謎めいた力の片鱗さえ、想像することはできなかった。彼が勝利したのか、あるいは苦戦しているのか、その安否すら定かではない。
だが、それでよかった。
あの花の魔術師が、街と外の世界を隔てる巨大な防壁として、今この瞬間も、ただ一人、立ってくれている。その絶対的な事実だけが、仲間たちの心から純粋な恐怖を遠ざけ、自らのなすべき作業に集中するための、揺るぎない礎となっていた。彼の存在が、この街の精神的な支柱そのものだった。
フィナは、広場の指揮所で最後の指示を出し終えると、一枚の布を手に取り、アロンソが戦いで汚したクレイモアを、黙って磨き始めた。それは、彼女なりの、歴戦の騎士への感謝と信頼の表明だった。ジアは、仕分けを終えた武器と医療品の一覧を、記憶と寸分違わぬ正確さで帳簿に記していく。来るべき戦いでは、一つでも物資が足りなければ、それが誰かの死に直結する。彼女のペン先には、街の全員の命が乗っていた。
高台のオリヴァーは、矢の製作を終え、今はただ、静かに街の外を見据えている。彼の目は、闇に慣れようとするかのように、水平線の彼方を、瞬きもせずに見つめ続けていた。カンナは、応急処置を終えた防壁に背を預け、自らの仕事に一点の抜かりもなかったかを、厳しい表情で検分している。
そしてフィルは、自らに託された「指揮官」という役割の重さを、改めて噛み締めていた。彼は、仲間たち一人ひとりの働きを目に焼き付け、この街が決して自分一人の力で成り立っているのではないことを、深く、そして誇らしく感じていた。師匠が信じてくれたのは、自分だけではない。この街に生きる、全員の強さなのだと。
街は静かに、しかし着実に、次の戦いへの準備を完了させていた。窓から漏れる灯りは、以前よりもずっと少ない。しかし、その一つ一つの光は、決して消えることのない、強い決意の光となって、夜の闇の中で、力強く輝いていた。彼らは、もう嵐を恐れない。ただ、その訪れを、静かに待つだけだった。
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