王家に捧ぐ百合の花-2/6
ジアは街に戻るたび、変わらない光景と変わってしまった何かを同時に探す癖がついていた。門の外で土埃を払いながら首をひねる。荷車の軋む音も、屋根の上を走る猫の気配もあった。けれど、その中に決定的に欠けている音があった。
落水音。もしくは飛びかかる気配。それがなかった。
彼女は半歩だけ足を止め、左足を引く。川沿いを縄張りにしているはずの犬が姿を見せていない。誰かに呼ばれるでも、石を投げられるでもなく、ただ街に入れたことが妙に引っかかった。入った瞬間から、空気が違う。歩くたびに感じる踏み心地、風に乗って流れてくる花の香り、微かに張り詰めた街の気配──どれも、いつもより深く沈んでいた。
ジアは歩き出すと同時に、街の周囲を警戒していた犬のひとつに視線を送った。その犬は明らかに反応していた。吠えず、寄らず、ただ伏せた姿勢のまま耳だけを動かしている。ひとつひとつの動作が、普段とは異なるリズムを持っていた。仕入れ帰りの足音には尻尾を振るくせに、今日は一度も動かなかった。
彼女は遠回しな挨拶もなく、犬の鼻先へ視線を合わせた。
「・・・何があったの?」
もちろん返事など返ってこない。けれど犬は、地面の匂いを拾うように動き、数歩だけ北へ歩いた。そしてまた立ち止まる。振り向きもせずに。何かを辿っている──ジアはその確信だけを抱いて、荷物を地面に落としたまま、犬のあとを静かに追った。風が通った。嗅いだことのない何かが、その中に混じっていた。
「・・・割った跡はない、外周ね。」
ジアは整備区画に足を踏み入れ、小石を払って地面に座るスレアの姿を見つけた。石畳からわずかに外れたその場所は、花の植生と人工構造の境界に位置し、都市の輪郭を保つための記憶の節点として使われていた。
「スレアさん!」
スレアは目を向けることなく、地面の小片を並べていた。ジアが立っただけで、何が聞きたくて来たのかは伝わっている。風の抜ける音に混じって、石が一つだけ回転した。
「・・・ジア。」
「無事なら良かったです・・・で?何ですか?」
「・・・誘拐。」
誘拐が起きたのは都市の中ではない。花畑の外周、管理区域のさらに先、斜面と林が接する境界だった。そこは監視範囲の限界点。整備中の区域で、防衛網の再設計を前に一時的に見張りが手薄になっていた。リミナは街路を外れ、匂いの濃さを追うようにその縁を歩いていた。目的があったわけではない。けれど、誰かがその偶然を見ていた。
「・・・今残っているのは?」
「カンナとラヴェル、フィナは留まる。残りは警戒しつつ外周を探して、フィルは追跡。」
馬車の轍は外周の丘陵を回り込み、草を踏みしだいたあとに地面を抉るような蹄跡を残していた。侵入ではなく、張り込みだった。罠のように、動き出す瞬間を待っていた形跡がある。引き込まれたあとの反応は早かった。フィルの槍が飛び、オリヴァーが山側から矢を放った。槍は確かに命中している。車軸は破壊され、荷台の一部が跳ねて落ちた。盗まれた花束、包み、積み荷の数点が散乱していた。だが、リミナだけがいなかった。
「・・・フィルね、槍だけで壊されてる・・・。」
積荷の中に人がいたかどうかを証明する物証はなく、だが重さの分だけ、誰かが確実にそこにいたことを地面が証言していた。スレアの指先は、配置した石をぐるりと一周撫でるように動いた。それは「行き」と「帰り」が一致していないことを意味していた。
「私が外に詳しいのでフィルを案内します。」
「・・・いいよ。」
奪われたのは物ではない。物は戻った。残された槍が語るのは、対応が遅れたのではなく、想定の枠から外されたという事実だった。ジアはそれを理解し、軽く目を閉じた。攻撃は届いていた。けれど、誰かがその上を上回った。それだけの話だった。スレアは次の配置へと石を進めていた。記録は続いている。だが、その続きを遡れるかどうかは、街の外で何が起きたのかを、誰がどこまで知っているかにかかっていた。
フィルは雪に鼻先を近づけるような姿勢で、斜面を横に移動していた。足音は消し、呼吸も整えて、鼻の奥に滲む情報だけで進路を選ぶ。すでに犬と見紛う動きだった。地表に残された花粉の微粒、潰れた草の香り、混じり込んだ油のような成分。それらが風に沿って断続的に伸び、曲がり、消えては現れていた。彼は無言で、次の起点に身体を滑らせた。
ベルは数歩離れた場所で、風に舞う紙片の端を踏み止めた。拾い上げると、手触りが通常の羊皮紙とは異なっていた。繊維の織りが細かく、染料の深さが異常に均一だった。無言で目を細め、角度を変えながら光を当ててみる。透かしがある。それも、王室外交部門でしか使用されないとされる双頭の百合紋。文書としての等級は、街の発行する通行証とはまるで別格だった。
「・・・これ、通行証の控え?」
ジアが駆け寄り、ベルの手元を覗き込む。文面は簡潔で、日付、通過地点、随行人数、目的が羅列されていた。その中央、許可の印字と署名の直下に記された名前を、ジアは見た瞬間に眉を寄せた。名乗らずとも記憶に残る名前だった。彼女は過去に一度、密貿易の中継所でその名前を見ていた。
「・・・これ、パリの連中ね。」
街の名前ではない。国でもない。王家だ。彼らが使う偽名、その筆跡の癖、通行証の書式。どれもが一致していた。王族がこの誘拐に関与している。それは決定的な情報だった。痕跡はもう誤魔化せないほど深く地に刻まれていた。雪に埋もれても、紙が風に乗っても、真実だけは確実に残った。フィルは遠くで、また一つ香りを拾っていた。だがその前に、目的地が変わった。相手はただの賊ではない。国の名を背負いながら、陰で動いている者だった。指名も、命令も、形を持たない敵。それを追うには、名前だけでは足りなかった。
「・・・赤兜が彼女を狙っていた事に関連があったりは。」
「・・・そうねぇ、あるとは思うわ。でも赤兜の生態や他個体が分かってない以上無茶よ。」
「う・・・ジアさん、確かにそうですが・・・。」
「諦めない事はいいけど、少し執着し過ぎよ?花に愛情込める愛情馬鹿なんだから。」
「ジアさんとしては?」
「・・・王族絡みは、法的に制限されるでしょうし・・・。派手に助けるよりコソコソやって計画的に助けるべきよ。」
「分かりました、じゃあジアさん、ベル兄、クレアさんで行きましょう。」
「護衛は任せた・・・けど一度休憩しましょ?」
「そうですね・・・昨日から少ししか寝てませんし。」
ベルが手を拭うと、指先に花の匂いが残っていた。雪の溶け残る地面に、彼が先ほどまで世話をしていた株が並んでいる。白い花弁は凍らず、むしろ冷気にさらされて透明感を増していた。ここ数日は外での作業が続き、寝たのは物陰で丸くなった数時間だけ。枕代わりに使った道具袋には、まだ乾いていない草の汁が染み込んでいた。
彼は静かに腰を落とし、花弁を一枚だけ摘み取った。厚手の葉の間から取り出した瓶にそのまま浸す。中の液体が淡く揺れ、少しだけ色が変わる。これがジュースの原液だった。香りは強くないが、喉の奥に残る甘さがあり、乾いた呼吸を整えてくれる作用がある。
「エキゾチックにこれいかない?他の場所のミツバチも面白かったわ?」
「・・・これ、いいですね。」
「スーッとしますねー。」
ジアは道具箱の中から砕いた花蜜糖を取り出し、片手でちぎって三等分に分ける。温度で溶け始めるその断面から、金色の粒がこぼれ落ちた。口に含めば、やわらかな酸味と土の匂いが混じり、脳がじんわりと目覚めていく。
「・・・もう夜か、行動をギリギリにし過ぎたかも。」
小さな炎を囲んで三人が座る。話す必要はなかった。風が弱まり、空気が均され、雪の粒が沈黙のまま落ちてくる。ジュースの表面に落ちたそれは、すぐに溶けて音を立てずに消えた。誰もがそれを見つめながら、今日だけは焦らずに一つ一つを噛み締めていた。追うために、まず整える。焦りではなく確信で歩くための、必要な休息だった。
「・・・。」
花弁の浮いた液体が静かに揺れ、誰からともなく飲み口に運ばれた。柔らかな甘みが舌に広がり、同時に思考が沈殿していく。誘拐の動機──それを絞り込むには、あまりに材料が多すぎた。
「・・・絶対に逃さない。」
可能性は幾つもある。都市外の勢力による政治的圧力。王族の内部抗争に巻き込まれた可能性。花の知識や扱いに関する技能を持つ者としての価値。あるいは、単純な偶然に見せかけた陽動。どれもが根拠を持ち、どれもが決定打に欠けていた。
リミナ自身が何かを隠していた可能性もある。だが、それもまた確定には至らない。彼女は都市に来たばかりで、まだ情報の重なりが浅い。けれど、奇妙なほどにこの地に馴染んでいた。花の扱い、住人との距離、空気の読みにくさ。あらゆる面で“既に何かを持っている”という前提が浮かび上がってくる。
けれどそれが、誘拐の理由には繋がらない。表向きの魅力、経済的価値、人脈、容姿、能力──どの点からも引き金になり得るだけに、逆に絞り込めなかった。愛情を抱かれる要素が多すぎる。執着される要因が多すぎる。利用される余地も、隠される理由も多すぎた。
結論が出ないまま、ジュースの最後の一滴が喉を滑り落ちた。瓶の底に残った花弁だけが、まだ水面を漂っていた。誰も答えを持たぬまま、次の行動だけが確定していた。確実に、奪い返さねばならない。理由を知るのはその後でいい。
「・・・絶対に取り返す。」
言葉の温度とは裏腹に、視線は静かだった。だがその奥にある熱は、花を育てる時のそれとは違っていた。報復は確実に遂行する。誰が、何のために、どんな理屈で奪っていったのか──理由など関係ない。奪われた事実こそがすべてを規定する。
名誉も立場も、交渉も関係ない。誰が正しく、誰が間違っているかなどではない。ただ、返させる。力ずくでも、隙を突いてでも、あらゆる手段を用いて。可能な限り傷つけ、確実に苦しませ、二度とこの地に手を伸ばす気さえ失わせる。
まずは家に花を蒔こう。外から見ればただの贈答に見えるが、花の種類と根の張り方、成分と発芽の早さを考えれば、それはじわじわと生活圏を侵す罠に変わる。構造の隙間を埋め、排気を変え、香りを染み込ませる。何も知らないうちに、居場所を奪われている事に気づかせる。それが第一段階だった。
そして、その空気の中で暮らさせよう。息を吸うたびに奪った罪を思い出すように。部屋に漂う香りが誰のものだったかを、骨の奥にまで刻ませるように。奪われた側の想いが、ただの失意では終わらないことを、嫌というほど味わわせる。
それは憎しみではなかった。愛情の裏返しだった。手放したくなかったからこそ、許せなかった。だから奪い返す。そして、その行為がただの回収ではなく、罰として機能するように整える。奪ったことを後悔させるのではない。奪った結果が自分たちの破滅へと続いていたと、明確に知らしめる。それが、今決めた最低限の線だった。
「・・・フィル、落ち着きなさい。」
「・・・分かってる、ジアさん。」
「貴方は力が溢れる分感情も人とは違うし、構造も全く違う、少し間違えれば死人が出る。その上で戦わなければいけないのよ?」
「・・・。」
「返事は?」
「・・・うん。」
「フィル君、好きな人が見つかったのね?」
「・・・え!?」
その問いかけに、フィルは目を瞬いた。鼻先にかかっていた微かな香りが霧散するかのように、思考が一瞬止まる。好き──という単語を正面から投げられることに、彼はまだ慣れていなかった。感情を言葉に変換する過程が、彼にとっては常に一拍遅れていた。それでも脳裏に浮かぶのは、確かにあの子の笑顔だった。触れた距離、咲いていた花、言葉より先に伝わった温度。誰にも教えていないのに、どうしてバレるのか──そう思いながらも、頬がほんの少し熱を持つのを感じていた。
ジアはその表情の変化を見逃さない。確信と興味の入り混じった笑みを浮かべながら、言葉を重ねようとしていた。フィルは返す言葉も見つけられず、ただ唇を閉じたまま視線を逸らす。それが何よりの答えだった。
「あはは!フィナちゃんにもべっとりだったし、多分今回の子も年上ね!」
リミナは黙ってその様子を見ていた。バレバレだ、と心の中で苦笑する。フィルの感情は、言葉にしなくても空気に出る。目線の流れ、頬の血色、指先の動き。そして何より、匂いが変わるのだ。花の中で暮らす者の変化は、花と同じように敏感に察知される。緊張した時の体温、呼気に混じる成分、髪の根元に溜まる香り──それらがほんのわずかに甘く、柔らかくなっていた。目の前のフィルは、完全に“誰か”を意識している匂いをしていた。
たぶん、あの時もそうだったのだろう。自分に触れた時、花の世話をしている時、その指先に宿る迷いと熱が、どこかぎこちなかった。今になって思い返せば、それはもう確実だった。リミナはそっと息を吐いた。これが恋だというなら──あまりにも素直で、真っ直ぐで、可愛らしすぎる。自分がそれを受け止める立場でいられるのなら、きっと悪くない。けれど、そうではなかった。今の彼女は、どこにもいない。どこかに連れ去られたまま、彼の思いの中心からこぼれかけていた。胸が、ほんの少しだけ痛んだ。
「むぅ・・・。」
「悪くない趣味よ?置いてけぼりにして逝っちゃうのは男の悪い癖だからね?」
ジアの笑い声は軽やかだったが、どこか乾いていた。冗談として口にした言葉が、ほんの一瞬だけ自分の胸にも刺さるのを感じた。置いてけぼりにされるのは、何も恋人だけではない。戦いに立つ者たちの背中はいつも遠くて、触れる前に消えていくことの方が多かった。未婚という言葉は、ただの制度上のことに過ぎない。だが、何かを選ばなかった過去ではなく、何も選ばせてもらえなかったという現在の名残として、静かに残っていた。
「・・・行こう。」
それでも、笑うしかなかった。笑って軽口を叩かなければ、誰かの心が沈む。だから言うのだ。「悪い癖」だと。背中を預ける前に、少しだけ振り返る余裕を持って、と。ジアは視線をフィルの横顔に移した。その表情に、微かに揺れる感情の火種が見えた。それが恋かどうかは、まだわからない。だが確かに、大切に思っている誰かができたのだということだけは、間違いなかった。
「行くとも。」
目に見える武器も、誇るべき盾も持たない。だが、潰されたくないもののために立つ覚悟だけは、誰よりも重い。奪わせたままでは終わらせない──ジアの歩みは、既に狙いを定めていた。
彼女は、フィルよりも心からの準備をしていた。
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