衝撃と畏怖-1/4
リミナが戻ってきたのは一ヶ月後の事だ。パリの空気は、春のくせに土臭く、腐敗と香辛料が混ざっている。火の気配が消えないのも伝統らしい。市場の裏手、肉屋と靴屋の間を抜けた先でフィルが立ち止まり、鼻を鳴らして深く息を吸い込んだ。
「久しぶりね!フィル君!」
「ここがパリなんですね!凄い!燃えてます!!」
「何に感動してんだ。まぁ、昔からの伝統だ。エティエンヌ・マルセルにでも言ってくれ。」
「今日は少し用事がありましてね、動物の繁殖期なので虫対策が大事なんですよ。」
「解体の仕方なら分かるわ。」
「焼き方もセットでお得ですねー。」
フィルの身長はリミナの肘あたりまでしかない。小さくて可愛いと思いながら撫でたくなる。だが忘れてはいけない、力の入れ方次第で真っ二つにする位には腕の力が強い、興奮なんてさせたら首チョンパを素手で起こされる。
「手を握ってもいいけど気を付けてよ?」
「驚かない様に気を付けます!」
「驚いたら私死ぬの?」
「即死はしません、握り潰すスピードの方が早いので。」
「最悪。」
パリで再開したのは別の目的がある。それが商談中の叔父への差し入れである。
「そうそう、最近妹がまた新しく出来たの。」
「代わりに用意した花が夫婦復縁で有名な奴でしたが・・・危ないですからね。薄めてやっと媚薬に抑えれる奴ですよ?」
「なんでそんな物渡すのよ。」
「希望もそうですけど気温の知識が不足しててですね?」
「・・・はぁ、まぁいいけど。叔父様にも差しい入れてあげれば商談が上手くいく!って思って渡したのですけど・・・。」
「予備は詰めてあるのでミスっても大丈夫です。利益で取り返せます。」
「フィナちゃんは?」
「花の世話でお留守番です。」
「あ、あと約束の灰、多くは持ってこれなかったけど。」
「似た花で再現出来ないか用なので嬉しいです。」
パリの中心部は腐肉と獣脂と火薬の香りが入り混じっていた。昔からの伝統と言えばそれまでだが、久々に訪れた身としては目眩がする程の不快さだった。リミナは眉を寄せ、喉の奥が痺れるのを抑えきれず、無意識にフィルの脇に手を差し込んでいた。臭いから逃れようとするように、そのまま抱え上げる。軽い。想像よりも遥かに。力が抜けた訳ではない。骨格自体が違うのかと錯覚するほどの質量のなさに、むしろぞっとした。だがその瞬間、肺の奥に入り込んだのは別の香りだった。湿気のない乾いた花の香り。発酵の過程を完全に終えた、熟れ切った土の香り。汗や汚れの類は全くなく、ただ土壌の中で濾過された命の残り香だけが柔らかく届いた。あまりに落差が大きくて、リミナは一度腕を緩めかけたが、そのまま強く抱いた。鼻が馬鹿になる程に、この子は清潔だ。香水のような匂いではない。手入れされた花畑に、数時間だけ通された時の記憶と酷似している。抵抗はない。ただ、両足を持ち上げられたフィルが、じっとしたまま地味に抗議してくる。
「・・・くすぐったいです。出来れば、手を少しずらして貰えると。」
「・・・あ、ごめ・・・いや、ちょっと無理。」
「はい、ではそのまま耐えます。あと、呼吸は少し控え目にお願いします。声帯が共鳴して内部に振動が来ます。」
「そんな細かいこと言う!?」
「耐性はありますが、警戒反応も一応出ます。」
「やめてよ、咄嗟に潰されそうで怖いんだけど・・・」
「握ってません。まだ。」
フィルを片腕に抱えたまま、リミナは吐き気を押し殺すように路地を歩いた。もはやこの街の臭いに文句を言う気すら失せていた。代わりに、抱えている小さな体から漂う花の香りを、出来るだけ鼻の奥に染み込ませるように呼吸を繰り返す。正気を保つには、これしかなかった。だが、嗅げば嗅ぐほど思い知る。これが対価無しで享受できる香りではないと。
「ちょっと!アンヌ!今あんたんとこ、台所に動物の血垂れてたでしょ。花、詰めときなさい!」
「え、あのリミナさん!?おかえ──」
「喋らなくていい!あたしが選んであげるから!」
数歩先の肉屋の奥、下働きの男が腸詰を運ぶ隙に花束を投げ込んだ。詰められたカゴはすぐさま香りの核になり、周囲の臭気をわずかに中和する。驚きの声が上がる間もなく、次の家へ足を向けた。
「モニク!赤ん坊いるんでしょ!このままだと肺に黴菌入るよ!あたしの花、干すだけで空気通すから!三輪でいい、今なら包みもつける!」
「え、あの、支払いは──」
「聞いてないわよ!」
肩に抱えたフィルが多少揺れても、誰も気にしない。彼自身も動じない。鼻先だけは彼女の襟元に残されており、どうにかこの悪臭の中で呼吸の形だけを整えている。
「そっちの店も!焼き場の裏に干してある革、何日置いてるの!色で分かる!もう腐ってる!腐ってなくても臭い!今すぐこれ飾って!」
怒鳴るたびに花束が投げ込まれ、手に持った布で包んで渡され、商談は会話なしで完了する。代金の回収は後回し。香りが広がりきる前に街全体の臭気を押し返すのが最優先だった。
リミナの中にある“香り”の価値は、今この瞬間だけ実際の金貨以上だった。
花を配り終えた頃には、既に周囲の空気が一段階澄んでいた。臭いが抜けたというより、抑え込まれていた。街の通りに立つ者たちが次々と彼女に声をかけてくるのを、リミナは全て利用した。誰かが見ている。誰かが聞いている。それなら宣伝になる。
「これ?この子、花畑で育ってるの。肥料の配合から温度の管理まで、自分で判断するのよ?七歳、男の子、薬は不使用。持ってるだけで空気が変わるって、さっき実感したでしょ?」
そう言って抱え直すと、フィルの目線がすっと合った。
「まるで商品みたいな扱いですね。」
「売ってないから安心しなさい。宣伝よ、宣伝。今度出る花束、あんたモデルになるんだから。」
「そうでしたっけ。」
「そうなのよ。」
木箱を引っ掻き回していた染物屋の主が、色素の取れかすを紙に包んで寄越してきた。腐葉土に混ぜれば殺菌効果が高いらしい。続いて皮職人が端材の革を、チーズ屋が発酵の途中で失敗した試作品を、それぞれ「匂いを遮る素材としてどうか」と手渡してきた。リミナは一言も断らなかった。
「頂いておくわ。あと、あんたんとこの肥溜め、今度覗きに行くからね。」
「ほう、行くんすかい。今ちょうど面白い話があって──」
「面白い話って?」
「東の連中が持ち込んだ“黒い土”よ。触ったら熱が逃げるし、汁気が下に落ちて分解が早い。あんたらの花と組み合わせりゃ、何か面白いことになるかもな。」
「・・・それ、本当に東欧?」
「地名までは聞いてねぇが、馬と鶏の骨が混じってる匂いがした。あいつら、火山灰じゃないって言ってたな。」
言いながら羊肉の串焼きを差し出してきた。匂いに負けた。空腹だった。フィルも受け取った。断る理由はなかった。腹が減っていた。──食った。さらに別の屋台からパン、パテ、ドライフルーツ、果実酒の香り。商売の報酬と称して食べ続けた。止まらなかった。
満腹になった。というより、もう動けない程に内臓が詰まった。フィルを抱えたまま、リミナは片膝をついて呼吸を整えた。目の前のフィルが静かに言った。
「そろそろ日が傾きます。静かな場所へ行きませんか?」
「・・・そうね、木の匂いくらいじゃ酔わないし。」
「それ、今日のセリフじゃないですよ。」
「うるさい。」
次の瞬間、向かったのは街の外れの森林だった。空気が通る。腹が重くても、足が動いた。
風が通った。街の空気とはまるで違った。木々の密度が高く、光は葉の隙間を滑っては砕け、土の匂いが呼吸の底まで降りてきた。リミナはようやく息を深く吐いた。腹の中に詰まった食べ物が、重さを残しながら静かに沈んでいく。そのとき、フィルが立ち止まった。
森の端に近い斜面の中腹。一本だけ、角度の異なる影が落ちていた。大きくはない。背丈はあっても、根が浅い。
「あの木は──」
視線の先で、幹の一部が裂けていた。削られたような跡。何かで引き裂かれたような線が、皮の下から僅かにのぞいていた。フィルの声が低くなった。
「記憶する木です。あれは、虫の通った跡を内部に残す木で。」
「・・・記録する、ってこと?」
「はい。でも、近づかない方がいいです。」
リミナは眉をひそめた。理由を問おうとしたが、フィルの目が動かないまま言葉を継いだ。
「何が通ったか、どのくらいの圧力だったか、どの向きに移動したか──全部、木の中に残ります。ですから、傷があるというより、過去がそこにあります。」
「過去、ね。」
「・・・僕たちの畑には、こういう木はありません。生きたものにしか記録できないものは、あまり使いませんから。」
語尾が妙に固かった。理屈ではなく、感情に何か引っかかっているような。
「神聖なものだと思っています。なので、あまり近づかない方が・・・良いです。・・・それ以上に生態を知るとクソ樹木だと思うでしょう。」
「分かった。」
「ありがとうございます。」
それ以上は何も言わなかった。風の向きが変わると、木の根元に積もった枯葉がざわりと鳴った。まるで誰かがそこにいるように、音だけが追いかけてくる。
「少しだけ説明します。」フィルは木を見たまま言った。「この木は燃えます。よく燃えるというより、太陽光の熱を集めて自分の周りの草を焼きます。乾燥すると、葉の反射で地面に焦点を作るんです。生き延びるために、周囲を焼き払って栄養を独占する。」
リミナは目を細めた。焼け跡はなかったが、根の周りの草が妙に少ない。納得するには十分だった。
「虫が住んでいる可能性もあります。でもそれ以上に、この木は“覆う”んです。傷を、火を、音も。」
「音まで?」
「この木、色々異質なんですよ。腐りかけなので楽器にするにも向いてます。」
「・・・神聖な理由が分かるわ・・・これ。」
「根が浅いぶん、水分を保持して振動を吸います。外皮も柔らかくて、潰れる時の音が少ない。だから気付かれにくい。でも、成長は早い。砕けやすくて軽いから──武器にもなります。」
「武器?」
「折って刃にしたり、枝のまま振り回しても使えます。軽いから、よく飛ぶ。人の体にも残りやすい。刃物より厄介な時もあります。」
「・・・へぇ・・・」
「でも染料にも使われます。体液の吸収が速くて、水に混ざりやすいので。あとは灰も柔らかくて沈殿しにくいので、紙にも。」
「便利じゃないの。」
「便利だから人は近づきたがる。でも僕は、あまり好きじゃありません。」
そこには理由はなかった。フィルの言葉はいつもそうだった。結論と情報が並んでいて、そこに情緒があるかどうかは、受け手に委ねられていた。
フィルは言い終えると、腰の後ろから小さなナタを抜いた。刃は短く、幅はあるが反りはほとんどない。刃渡りは彼の腕の半分にも満たないが、握った時の角度に無駄がなかった。
「確認します。」
地面を一歩ずつ確かめるように進み、幹の右側、節の少ないあたりに目を留めた。柄の底でそっと幹を叩く。音が乾いて返ってきた。中は空洞になっていない。だが厚みが均一ではない。傷がある。そう判断したのだろう。
刃が入ったのはほんの一瞬だった。押し込むのではなく、撫でるように。表皮を剥ぐように、角度をずらして裂く。刃先は滑り、木の繊維が一筋浮き上がる。
「・・・これは、やっぱり傷跡ですね。節の再生が少し歪んでます。」
「虫の?」
「大型ではないです。でも、熱が加わってる。皮の裏に、焼けた色があります。」
裂いた箇所の内側、確かにわずかに焦げた茶色が混じっていた。焦げではなく、日焼けでもない。熱に晒された樹液が、繊維の間に染み込んで硬化していた。
「燃えてますね。たぶんここを起点に、草が燃えたことがあります。焼けるというより、“焼いた”という感じ。」
「やっぱり、火を使うのね。」
「だからこそ、音も匂いも残さないで死ねる。戦場には向いてます。」
フィルはそう言うと、ナタを布でぬぐい、折った木屑を慎重に紙袋へ入れた。分析する気らしい。リミナは少しだけ背筋に冷たいものを感じた。
フィルは裂いた木片を手に取り、陽の光に透かした。繊維の中に残る焦げの色、層の厚み、断面の滑り。そこに微かな違和感があった。
「・・・これは・・・。」
木片の端に、通常とは異なる焼けの波形があった。熱の入り方が斜めに偏っている。外からの熱ではなく、内側で滞留した痕だ。フィルは木片を持ち直し、さっきより低い声で言った。
「燃え方が少し違います。普通なら表面が先に炭化して、芯に向かって焦げていくんですが、これは逆です。内部が先に変質している。」
「じゃあ、何が起きたの?」
「虫の熱源が、内部に留まったと考えるのが自然です。」
「そんなの、よくあるの?」
「いいえ。大型の虫が身体の内部で熱を溜めることはありますが、ここまで明確に“芯から焼けた”形跡は珍しいです。」
もう一度、切り口にナタの背を当て、押し割るように木片を分解する。層がほぐれた瞬間、焦げ跡がさらに奥へ走っているのが見えた。
「貫通せず、かといって外に逃げてもいない。発熱器官があった可能性があります。しかも──既存の型とは一致しません。」
「じゃあ、まさか・・・。」
「新種か、変異個体か。どちらにしても、記録に無い虫の可能性が高いです。」
フィルはそのまま黙り込み、小さな花弁のような炭化層をそっと指で剥がした。幹の奥に、何かが通った軌跡がまだ残っていた。
フィルは木片を布に包みながら、静かに言った。
「このまま森の奥に入るのは、避けた方が良いです。」
「・・・そう。戦わないの?」
「はい。今回は撤退判断です。」
即答だった。熱はない。怒りの気配もない。ただ、芯だけが明らかに硬くなっていた。無感情なようで、逆に何かを強く拒絶している。リミナは口を開きかけて、言葉を飲んだ。
戦ってくれると思っていた。怪物の痕跡を見て、そこに立ち向かう姿が浮かんでいた。けれど、違った。彼はまず安全を見て、撤退を選んだ。周囲を気にして、手順を守った。
「怒ってるの?」
「はい。ですが、衝動で動くわけにはいきません。」
その言い回しに、胸の奥が少しだけ熱を持った。守られる側ではなく、守るために感情を制御する。誰に教えられた訳でもないのに、その姿勢だけで惚れそうになる。
「でも、そうね・・・正義とか、あんたの大事な人たちとか、居るんでしょ?」
「はい。街にも、花畑にも、関係者はいます。」
「だったら、今のうちにそっちに向かう理由を作っておかないとね。」
「理由?」
「つまり──調査、ってこと。もう少し、このまま一緒に歩かない?」
フィルは黙って数秒、木の根元を見つめていた。
「了解です。記録を整理しながら、案内します。」
「良かった。」
「ただし、あまり深くまでは入りません。あくまで記録の範囲で。」
「はいはい、デートとは言ってないわよ。あくまで、花を見に行くだけ。」
「そうですね。観察対象の変化を共有するための同行です。」
「言い方、どうにかならないの?」
「どうなれば正解なのかは、まだ不明です。」
それは答えではなかったが、悪い気はしなかった。
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