第32話 願い事には迷わない
強まった雨脚が屋根を叩く。近いはずなのにやけに遠く聞こえた。いつか直面する現実だと分かっていたつもりだった。でもいざ目の前にやってくると、どう受け止めればいいのか分からない。
「……すぐそばにいます」
「そっか」
恋する乙女な横顔から目をそらして、自分のおみくじに目を落とす。『凶』と書かれていた。
「すぐそばにいる」と断言できるほどに仲良くなっているのだ。友達として喜んであげるべきなのだろう。分かっているのに笑えない。独占欲を爆発させてはいけない。理解していても感情はついてきてくれないのだ。
衝動のままに手を伸ばす。赤く染まったかわいいほっぺだ。私だけが触れる場所だ。桜色の唇も、私だけのものなのだ。
誰にも渡したくない。私だけを見つめて欲しいのに。
「佐藤さん……?」
声をかけられて正気に戻る。小さくため息をついた。栞子さんは私だけのものじゃない。
「……あっ、何でもないよ! それよりおみくじどうだった?」
「大吉でした。思い人と結ばれるって書いてあります」
ニコニコ笑って私にくっついてきた。かわいい上目遣いで見つめてくるのだ。好きな人がいるのなら、私なんかといちゃついている場合ではないだろうに。
「あのね、栞子さん。そういうかわいい顔は好きな人にしてあげるべきだよ」
「好きな人にしてます!」
「そういう意味じゃなくてね……!」
胸がドキリと跳ねる。まさか本当に私のことが好きとか……?
いやいや、そんなわけないよね。「友達として好きな人」って意味なんだろう。やっぱり栞子さんは小悪魔だ。
「……どうすれば好きだって分かってもらえるんでしょうか」
「告白すればいいんじゃない?」
「できるわけないです! 振られるかもしれないんですよ……?」
世界中を探しても断る人なんていないと思う。でも栞子さんは奥手だろうし難しいのかもしれない。
「まだ焦らなくてもいいよ。仲良くなる機会はまだたくさんあるし」
「球技大会とか文化祭とかありますもんね」
私だって心の準備が必要だ。他の人に夢中になってる栞子さんなんてあまり見たくない。
降りしきる雨を軒下から眺める。境内は白くかすんでいた。傘をさして帰るには少し雨脚が強い。急いで帰宅する理由もないし小康状態になるまで待つことにする。
隣をみるとぼんやりとした横顔で雨空をみあげていた。好きな人のこと、考えてるのかな。
ちくりと痛む胸から意識をそらして口を開いた。
「そういえば球技大会はどの競技に出るの?」
「バスケットボールです。でも今から不安です。みんなの足引っ張ってしまいそうで」
「じゃあ二人で練習する? 市民体育館とかで」
私は運動がそれなりに得意だから、基本的なことなら教えられると思う。
「いいんですか? スポーツに関しては物覚え悪いと思いますけど……」
「大丈夫。テニスだってすぐに打てるようになったでしょ。手取り足取り教えてあげるから」
「佐藤さんって優しいですよね」
また甘えるみたいに私によりかかってきた。目を閉じてすっかり安心しきっている。あんまりに無防備だ。もしも私が急にキスをしたくなったらどうするつもりなのだろう? 防ぐすべなんてないように思う。
「もう少し警戒心持った方がいいんじゃないかなぁ……」
「何を警戒するんですか」
「例えば……」
きょとんと首を傾げている栞子さんの額に唇を落とした。その瞬間、顔が真っ赤に染まり眼鏡も白く曇っていく。反応がかわいすぎて色々と危うい。私の理性がほんのわずかでも弱ければ、本当にキスしていたかもしれない。
「私がおでこじゃなくて唇にキスしたいって思ってたら、どうするつもりだったの?」
美しい黒髪を撫でながら問いかけると、栞子さんは白く曇った眼鏡を外した。
そうして裸眼のまま、色っぽい上目遣いをぶつけてくるのだ。
「……したいんですか?」
「そういうわけじゃないけど」
まぁ本当はしたいけどね……。あっ、もちろん恋愛感情があるとかじゃないよ? でも栞子さんはかわいいのだ。たまに同性なのに好きになっちゃいそうな瞬間がある。この間も胸を触ってしまった。しかも無意識に。
本当に理解できない。理解できないほどの魅力があるからこそ、こういうのは、ダメだと思う。
「でも考えもしないことを言葉にはできないはずです」
「……それは」
「私とキスしたいって少しでも思ってくれたんですよね?」
目をそらして黙り込む。積極的に否定しようとは思えなかった。だって栞子さん、嬉しそうだし。本当に意味わからないけど、ヒマワリみたいにまぶしい笑顔を浮かべているのだ。梅雨なんて、今にも吹き飛ばしてしまいそうなくらいに。
「無言は肯定です」
「……否定かもしれないよ?」
「そういう顔にはみえません」
「眼鏡外してるからでしょ」
「じゃあもっと近くで佐藤さんをみないとですね」
なんてささやいて、吐息がかかるくらいに体を寄せてきた。行き過ぎた「かわいい」は暴力性すら孕むのだと初めて知った。心臓の病気にかかったみたいに胸が苦しい。本当に、この人は卑怯だ。
ただ顔をよせるだけで、私をおかしくさせてしまうのだから。
「……その、くっつくのはあんまりよくないと思う」
「どうしてよくないんですか?」
「どうしても」
「理由になってないです」
「とにかくダメだから……」
肩に手を当てて優しく押しのける。でもこの人は頑固者だった。
「私は佐藤さんにくっつきたいです」
頑なな主張と共に再び体を寄せてきたのだ。しがみつくみたいに腕を絡めている。これみよがしに押し付けられた柔らかい感触のせいで、全身にますます熱が巡りはじめた。積極的すぎて手に負えない。
「分かった、分かったから……! 腕を組むのはやめて!」
「佐藤さん顔真っ赤ですね」
「栞子さんのせいでね!」
ジト目を向けると、くすくすと嬉しそうに笑っていた。何がそんなに楽しいのだろう。
「……栞子さんだって暑いでしょ。空気もこんなに蒸し暑いのに」
六月の初めだけど、晴れの日の気温は三十度に迫る勢いだ。雨の日でもせいぜい数度落ちるくらい。なのに栞子さんは笑顔を絶やさない。「むしろ好きな暑さです」なんてつぶやいて笑うのだ。本当に困った子だった。
「ということでキスしませんか?」
「なんでそうなるの!? 会話の繋がりがおかしいよ……!」
何歩か後ずさりをして、小悪魔どころか大悪魔と化している栞子さんと距離を取る。
「私としてはかなり自然だと思ったのですが……」
「不自然だよ……」
「でも佐藤さんはこんな感じで距離を縮めてきましたよね?」
出会ったばかりの頃を思い出す。「仮の恋人」という関係を提案してみたり「お嫁さんにしたい」なんて凄いことを口にしたり、確かに我ながら尋常じゃない距離の詰め方だった。言い訳はいくつかあるけど、どれも決定打にはならない。
「だから私にも佐藤さんを辱める権利があるはずです」
堂々と胸を張っていた。強くは言い返せない。恥ずかしい思いをさせたのは事実なのだ。
「……でも好きな人いるんだよね?」
「目の前にいます」
「えっ……?」
聞き返す前に栞子さんは目をそらしてしまった。
「……あ、雨が上がってきましたね」
指さす先に目を向けると雲間から光がさしていた。
「最後に神様にお願いしてから帰りましょうか」
手を引かれるままに拝殿に向かう。栞子さんの好きな人は目の前にいるらしいけど、神社にそれらしき人は見当たらない。そもそも私たちと巫女さんしか人の姿がないのだ。ってことはつまり栞子さんが好きな人って巫女さん……?
「……いやいや」
そんなわけないよね。ここに来たの初めてみたいだし。
だとすれば必然的に私が栞子さんの「好きな人」ってことになるけど。
「えっ……!?」
顔に熱が集まる。反射的に繋いだ手を離した。隣をみればいつも通りのかわいい横顔だ。見慣れているはずなのに見つめられない。反発する磁石みたいに勢いよく顔をそらした。視界の端で揺れる黒髪も、いつにも増して意識してしまう。
「どうかしました?」
「な、何でもない!」
「……もしかしてまた私のこと意識しちゃったんですか?」
「そういうのじゃないから!」
離れた手をぎゅっと握り直す。恋人繋ぎは恥ずかしいけど、ここでためらえば疑念を深めてしまう。汗ばんだ手をくっつけて指先を絡めた。別になんてことない。いつも通りの恋人繋ぎだ。
なのに栞子さんは訝しげな目で私を見上げるのだ。
「すごく怪しいです……」
「そういう栞子さんこそ私のこと意識してるんじゃないの……?」
「もちろんしてますよ。胸の鼓動、聞いてみますか?」
繋いだ手を放して両腕を広げた。本当にこの人栞子さん……? 双子の妹か姉に入れ替わったりしてない? あんまりにも見違えすぎて信じがたい。けれど少し観察してみると、すぐに合点がいった。
髪からのぞく耳が真っ赤に染まっているのだ。余裕そうな顔だって微かに強張っていた。
「じゃあ聞かせてもらおうかな」
私がニヤリと笑うと、目を見開いてあからさまに動揺するのだ。
「や、やっぱりだめです!」
体を守るように両腕も閉じてしまった。本当にかわいい人だ。こんなの恋をしちゃっても仕方ないと思う。同性とか異性とか関係ない。栞子さんの前には性別なんて無意味なのだ。
「えー、なんで? 聞きたいなぁ栞子さんの心臓の音」
「だめなものはだめです!」
なんていちゃいちゃとじゃれ合いながら賽銭箱の前に向かう。流石に神様の前では騒ぐ気分になれない。一緒に硬貨を投げて紐を揺らせば、甲高い音で鈴が鳴った。願い事には迷わない。手を合わせて目を閉じて祈った。
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