第26話 観覧車

 夕暮れの空を黒い影が飛んでいく。園内を満たしていた活気はもはや遠い過去だった。ゴールデンウィークも今日で終わりだから、みんな早めに帰ってしまったのだろう。明るい音楽だけが空っぽな空に響いている。


「最後に観覧車乗ってから帰ろうよ」

「……そうですね」


 栞子さんは切なげに目を細めていた。小さな手を引いて歩いていく。巨大な影の根元まで進み、再び空を見上げた。肌寒い海風が私たちに吹き付ける。藍色を背負って回るそれは、一日の終わりを嘆くみたいに、ぎしぎしと遠吠えをあげた。


 係員さんに案内してもらってゴンドラに乗り込む。向き合うようにして腰を下ろした。扉が閉まって密室になると、栞子さんはアンニュイな横顔で「楽しかったですね」とささやく。私も「楽しかったね」と笑って外に目を向けた。


 時計の短針のようなゆっくりとした速度で昇っていく。窓ガラスの向こうには、オレンジ色に輝く海が静かに揺れていた。遠くに大きなクルーズ船が浮かんでいて、さらにその向こうには水平線が伸びている。


「佐藤さん知ってますか。水平線って意外と近いんです」

「確か4kmくらいだっけ。聞いたことあるよ」

「じゃあこの観覧車の一番上ならどれくらいになると思いますか?」

「分からない。どれくらい?」


 聞き返すと栞子さんは自慢げな声で言った。


「大体30kmくらいです」

「へー。それでも30なんだ」

「私たちがみてる世界って思ったより小さいんですよ。なのに知らないことばかりなんです。遊園地でデートをしたらどんな気持ちになるのか、どれだけ楽しいのか……。今日はたくさん教えてくれてありがとうございました」


 優しい微笑みがオレンジ色の光の中に現れる。陰影が強いからいつもより大人びて見えた。「かわいい」というよりも「綺麗」なその容姿に見惚れてしまう。本物の恋人なら、ここでキスでもしたのだろうか。


「私こそありがとうだよ。いつかまた来ようね」

「……はい。またデートしましょうね」


 桜色の唇が小さく笑う。舐めていた飴が溶けてしまったような、不思議な口惜しさに襲われた。栞子さんとは手を繋げる。ハグだってできる。頬や額にキスもできる。けどその場所には指で触れることすら叶わないのだ。


 ゴンドラは高く昇ってゆく。非日常の終わりがすぐそこまで迫っている。本当にこのまま帰路についていいのかな。胸いっぱいに焦燥が満ちてゆく。いつもの私なら欲望に抵抗できたのだろう。でも今この瞬間だけは無理だった。


 日常がはじまれば栞子さんはたくさんの人と関わるようになる。そうなれば自然と私との関係も薄まるはずだ。そもそも私たちが仲良くできているのは、栞子さんに仲のいい人がいないという面が大きい。


 例えば文学や芸術に造詣の深いおしとやかな子が現れたのなら、勝てる自信はないし、勝っていい道理もない。


 覚悟を決める。立ち上がって隣に座った。


「……栞子さんって唇綺麗だよね」

「えっ!? えっ、えっ……?」


 奇妙な言動に混乱しているのだろう。敵の攻撃を防ごうとするアルマジロみたいに背中を丸くしていた。警戒するような、あるいは何かを期待するようなまなざしを向けてくる。斜陽に照らされて輝く長髪に、私はそっと手を伸ばした。


「私の唇も触っていいから、栞子さんのも触らせてほしい」


 優しく梳きながら伝えると、いよいよ凍り付いてしまう。けれど頂上が近づけば、覚悟を決めたみたいな表情で頭を上げた。マグマのように真っ赤な頬でこくこく頷いてくれたのだ。私に顔を向けてぎゅっと目を閉じている。


「触っていいんだよね?」

「は、はい……。あっ、眼鏡外した方がいいですか……?」

「えっ? 別に外さなくていいけど」

「じゃ、じゃあこのままでよろしくお願いします……!」


 きゅっと唇を引き結んでいる。緊張するのも当然だ。普通は他人に唇なんて触らせない。少しでも安心してもらいたくて、私は膝の上にある栞子さんの手を包み込んだ。そのまま顔をよせて、すぐ近くからまじまじと観察してみる。


 薄すぎるわけでもなく分厚すぎるわけでもない。形も綺麗で、かわいらしい顔に完璧にマッチしている。しかもリップを塗っているわけでもないのにつやつやだった。理想的なかわいい唇だ。我ながらこれまでよく我慢したものだ。


 人差し指を伸ばして端から端へと撫でてゆく。マシュマロみたいな感触だった。ほどよい弾力で押し返してくれるのが、とても気持ちいい。ずっとぷにぷにして遊んでいたい。でもそろそろやめよう。流石に栞子さんに悪い。


 さっきからくすぐったそうに身をよじっていた。しかも色っぽい吐息だって漏れている。これ以上触ると色々とまずい。何がまずいのかは具体的には分からないけど、とにかくまずいのだ。騒ぐ心臓にため息をつきそうになる。


 何とか指を引っ込めて栞子さんの頭を撫でた。


「触らせてくれてありがとう。大満足だよ」

「……えっ? これだけで終わりなんですか……?」


 もじもじと太ももを擦りながら物欲しげな目でみてくるのだ。


「もっと触って欲しかったの?」

「い、いえ。そういうわけではないんですけど……」


 よく分からない。まさかキスして欲しかったのだろうか? 


 ううん。そんなわけないよね。本物の恋人じゃないんだし。


「次は栞子さんの番だよ。はいどうぞ。あんまりいい唇じゃないかもだけど」


 触れやすいように顔を近づけて目を閉じた。ちょっとだけ恥ずかしい。きっと今の私はキス待ち顔になってる。


「……あの、知ってますか。観覧車の一番上でキスしたカップルは別れないって迷信」

「聞いたことはある。ロマンチックでいいよね」


 目を閉じたまま微笑む。「もしも栞子さんとキスしたらずっと一緒にいられるのかな?」なんて考えてしまって顔がほんのり熱くなった。そんなのあり得ないのにね。相変わらず私は妄想力がたくましい。


「……佐藤さんってキスしたことないんですよね?」

「あるわけないよ。恋人いたことないし」

「あっ、そうでしたよね……!」


 聞こえた声には明らかに喜びがにじんでいた。


「その、佐藤さん。触りますね……?」

「どうぞ」


 一応ケアはしてあるけど栞子さんみたいにプルプルではない。満足してもらえたらいいんだけど……。なんて思っていたら柔らかなものが唇に触れた。けどすぐに離れてしまう。やっぱり私の唇はお気に召してもらえなかったようだ。


 目を開ける。どういうわけか栞子さんはさっきよりも真っ赤になっていた。かわいい唇を人差し指で撫でている。


「ごめんね。次はもっとしっかりケアしておくから」

「わ、私こそごめんなさい……」


 急に深々と頭をさげてきたのだ。思わず体を反らす。


「どうしたの……?」

「な、何でもないです。でもごめんなさい……」


 よく分からないけど気に病むようなことをしてしまったらしい。


「だいじょうぶだいじょうぶ。何したのか分からないけど謝らなくていいよ」


 黒髪を手のひらでなでなでした。唇を触らせてもらっただけで「ありがとうございます!」って感謝したいくらいなのだ。お化け屋敷でしたように腰に腕を回す。そうしてぎゅっと栞子さんを抱き寄せた。


 鼻先の触れてしまいそうな距離でかわいい顔をみつめる。


「でも私以外には唇触らせないでよね? まぁ彼氏とか仲のいい友達とかできたら仕方ないけどさ……」

「そ、そんなのできないですよ!」


 恥ずかしいはずなのに目を合わせて即答してくれた。背中から差し込む夕日が後光みたいだ。


「ほんとに?」

「絶対にです。だって私たち恋人なんですよ? ……仮ですけど」

「嬉しいけど絶対はだめだよ。栞子さんにはたくさんの人と仲良くなってもらわないと」


 私の独占欲は信じられないくらいに強い。自覚しているからこそ自制しなければならない。楽しい毎日を送ってもらうために自信を付けようとしたのだから、本末転倒になってしまう。栞子さんを縛り付けて一番後悔するのはきっと私自身だ。


「なんでそんなこと言うんですか……?」

「一緒にいて楽しい人と関わるようになるのは当然の成り行きだよ。私に話しかけるなって言ってるわけじゃない。私のことを意識しすぎて他の人をおざなりにする。これは絶対にダメって伝えたかっただけ」


 私だって明日なんて来て欲しくない。ずーっとゴールデンウィークが明けないでほしい。いつまでも私とだけ過ごしてほしい。二人だけの世界で「仮の恋人」として、恥ずかしいことをたくさん言い合いたい。


 でも時間は止められないから、眉を下げて「ごめんね」と笑った。


「……束縛してくれていいんですよ? 私のことなんて何も思いやらなくていいんですよ?」

「そんなことできる『彼女』にみえる?」


 栞子さんは悔しそうに肩を落として目をそらした。


「未来永劫の別れってわけじゃない。そもそも別れですらないんだよ。普通に話せばいいしさ」

「……分かってます。でも」

「『でも』は禁止だよ。社交性がないと将来困るんだからね?」


 明るく笑って栞子さんの手を握る。ゴンドラは落ちてゆく。あんなにも遠かった地上がもうすぐそこだ。


「……確認させてください。本当に私のこと好きなんですよね?」

「大丈夫。栞子さんの不安は全部外れてるよ」


 手のサイズを比べるみたいに正面から両手を触れ合わせた。やっぱり私の方が一回り大きい。そこから指と指を絡めて、簡単には離せないくらいの力で握りしめる。そうして私は顔だけ突き出すようにして、ほっぺにキスをした。

 

「大好きだよ」


 大きく見開かれた目にはいろんな感情がみえた。何か言いたげに口を開くけれど、ちょうどその時に扉が開かれてしまった。外の冷たい空気が流れ込んでくるのだ。係員さんが声をかけてくるから、私たちは大慌てで手を離して地上に降りた。


 閑散とした遊園地を二人きりで歩いていく。


 何も言わずに指を絡めれば、栞子さんも黙って握り返してくれるのだった。

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