第十八話:境界を超える手


 訓練棟の広間には、昨日と同じ白霧がゆるくかかっていた。黒い床パネルは磨かれ、境界ラインは白く発光している。天井の送風が切り替わるたび、細かな粒子が光柱の中を流れた。金属とオゾンの匂い。遠くで冷却ファンが低く唸る。


「第3試合は審判による判定を優先する。先日から境界線の場外認識が甘くシステム不具合が完全に解消していないためだ。」


 ヴァレク・ガンドロスの通達は、それだけだった。余計がない。


 観覧席は満員に近い。制服の色がいくつも折り重なり、ざわめきが渦を作る。上段の配線ダクト付近、またも、銀髪の青年が手すりに片肘を置いている。斜光で髪が鈍く光る。来賓席では、黒い外套に紅の瞳──ジュリア・ハートフィルドが無言でリングを見ていた。


 控えスペース。俺たち三人は円になって立つ。


「役割は昨日のまま。俺が受け、シンが前。ミュリナが支援」


 ユーストが静かに合図役割の確認を行う。


「了解。ライガとリィナは相当手ごわい、生半可な陽動は通用しない」


「足元は薄橙でノイズを消す。必要なら、薄紅で加速や重心を滑らせる。

……支援は任せて」


 ミュリナが短く息を合わせる。余計な説明はいらない。俺たちは、もう知っている。


(勝つ。リィナとライガはお互いを知っているからこそやりにくい)


 胸ポケットの無地のカードが、布越しに一拍だけ熱を打つ。微かな鼓動が、俺の拍と重なった。


 審判の旗が上がる。ゲートから現れたのは──チーム8。


 リィナ・クロス、ライガ・バルクス、フレイナ・ミルフォードが現れる。俺は自然と背筋を伸ばした。


 フレイナが槍の石突きをコツ、と床へ。

「ねえ、リィナ。あいつ、あんたたちの友だちなんでしょ?」

顎で俺を示し、唇の端を上げる。

「プロトスって言うわりに全然強そうに見えない。……パッとしないのね」


 胸の奥が、静かに熱を持つ。


「口より先に手を動かせ」ライガが理力を刃に薄くまとい、短く言う。声は低いが、その奥は熱い。


「フレイナ。あいつが強そうに見えないのなら、お先にどうぞ」

リィナは白霧の粒を熱で均し、視界を整えながら俺にまっすぐ目を向ける。

ほんの少しだけ、いつもの笑みが混じっていた。


 ブザー。薄い障壁が落ちた瞬間──


 先に斬り込んだのは、やはりフレイナだった。二歩で間合いを潰す電光の踏み込み、槍先の返しから低い足払いへ。速い。直線に見えて、微妙に捻る。


「受ける」ユーストが半歩前。盾は“面”ではなく角。衝撃線をわずかにずらし、槍筋の芯を逃がす。


(今だ──視せろ!)


 音が薄く、色が一段落ちる。返しの肩、踵、次の払い──像が“先に”滑ってきた。


「ユースト!足だ」


 わざと、声を出す。俺の足は逆の左へ。ミュリナの薄橙が足裏をすっと支え、踏み替えが滑るように決まる。


 槍の返しは空を噛む。俺は剣面で払いを滑らせ、ユーストの盾角がフレイナの軸足を外へ弾く──


 そこで落とせないのが、フレイナだ。腰を切って石突きを回し、境界一枚を踊るように踏み直した。綺麗に戻る。速い呼吸、好戦的な笑み。


「その程度?」


(強い。)


 ライガの理力をまとった刃が俺の肩口をかすめ、リィナの熱が視界の粒をわずかに荒らす。フレイナに合わせた陣形、正直、ライガとリィナは戦いにくそうだ。

ミュリナの薄橙が即座に足元を“安定”に塗り替え、ユーストは盾の角で槍柄を一瞬止めた。


ユーストの二本指が静かに立つ。


「右!」──今度は本当に右へ圧をかける。俺は半歩だけ遅らせ、フレイナの返しの“入口”に自分の出口を足す。剣の腹で手首を撫で、軸を半分折る。


「薄紅、一拍」ミュリナの声。補助線が一瞬だけ薄紅に色づき、俺とユーストの踏み替えに“拍”を足した。


 ユーストの盾角がもう一度、踵を外へ──今度は戻れない角度だ。フレイナの靴底が白線を跨いだ。


審判旗が上がる。


「──フレイナ、場外」


 観客がどよめく。フレイナは舌打ちをこらえ、鋭い視線だけを残してリングを降りた。「……パッとしないわりに、やるじゃない」


 残る二人──リィナとライガが同時に一歩詰めてくる。


 リィナは俺をまっすぐ見て、短く息を揃える。「本番は、これから」


(先手は取った。けど、一番厄介なのはここからだ)


「リィナ。俺から提案なんだが、合図は無しにして自由に攻めるのはどうだ?」

「あら、珍しい。それは勝手に合わせてやろうって意味でいいかしら?」

ライガは短く頷くと同時に剣を構えた。

リィナも同じように、リミッターを外したかのように炎を展開し始めた。


(あいつらが“自由”になると、面倒だ)


 ライガがシンへ突進。ユーストが割って入る。盾を掲げ、深く重心を落とした、その瞬間──


 ユーストの足元で火が芽を吹いた。リィナの熱が床の粒子を拾い上げる。


「っ……」


 熱に一瞬、上体が浮く。ライガはその刹那を逃さず、盾ごとユーストを蹴り飛ばす。ミュリナの薄橙が間に合い、失速。仰け反りで済む。


 シンは右肩からライガへ斬り込む。ライガは重心を流し、上体を地面すれすれまで倒してかわす。(そこまで落とすのかよ)


 ライガの抜けた位置──そこから炎柱が噴く。リィナの合わせ。頬を熱がかすめた。


「あっつ……」(避けた先に、合わせを仕込む。ほんと、いやらしい)


 シンの脇腹ががら空きに。ライガは見逃さない。


「シン!」ユーストが盾を捨てず、だが左手で剣を受け、シンの前に立つ。

「ぐっ」

骨の軋む音。


 同時に、盾で突進姿勢。ライガはそれも読んで、側面へ回り込み、回し蹴りに反動を乗せる。ユーストが流れる──


「薄橙で戻す!」ミュリナの光糸が走る。しかしその糸を、リィナの火が焼き切った。支援線が一瞬ぷつりと途切れる。


 ライガの踏み込みと、リィナの“撓み”が重なった。ユーストはそれでも盾の角を床に噛ませて止まる──が、片足のつま先が白をひっかけた。


「──ユースト、場外!」


 広間が揺れた。歓声と息を呑む音。白霧がふわりと持ち上がる。上段の銀髪は動かない。ジュリアも立たない。ヴァレクは何も言わない。


「……すまない。押し切られた」ユーストは淡々と盾を下げ、リング外から俺を見る。「二人なら勝てる」


「任せて」ミュリナが短く答える。指先の薄橙がわずかに震え、すぐ整う。


俺たちは二人になった。


(ここから、どうする。任意発動は短い。──でも)


 胸ポケットのカードが、二拍、そして三拍と熱を重ねた。布越しの鼓動が、手のひらの内側まで来る。♠の輪郭が、内側へ濃度を持ち始める気配。……まだ、出ない。


 リィナが息を整える。ライガは剣をわずかに下げ、声は低いまま。


「ここで決める」


 ミュリナが俺の横に立つ。

「薄橙も焼き切られちゃうから……うまく支援できないかも」


「大丈夫だ」俺は頷いた。


「こっちも自由にやらしてもらおうか」

ミュリナは短く頷く。

 

審判が短く旗を振る。再開の合図。


 白霧が、送風で一瞬だけ濃くなる。境界の白は揺れない。


 ライガが沈む。リィナがわずかに熱を“冷ます”。


(二人がまだ知らないのは任意発動が出来るということ……)


 四人が同時に踏み込んだ。


 刃の鈍い響きと、空気が弾ける音が重なる──


 

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