第二章
第45話 ボロ負けの翌朝
球技大会も無事に終わり、その翌日。
そろそろ六月末を迎える頃合いだが、相変わらず、じめっとした気候が続いている。
今の時期の暑さが、俺はいちばん嫌いだ。蒸し暑さのせいで、どうしたって寝付きが悪くなる。
いや……今回に限っては、それは言い訳だな。
この寝不足には、明確に、気温以外の理由があった。
「あんなことがあって、ぐっすり寝れるわけないだろ……っ!」
慌てて制服に袖を通しながら、俺はふと、昨日のことを思い返す。
ボロ負けした球技大会。ダサくて情けないところを晒しまくって、これでもかと大恥をかいて。
だけど――そのあと、恋歌と話をした。
彼女は俺を、ぎゅっと優しく抱擁してくれた。そして耳もとで、こんな言葉を囁いてきたのだ。
『私は、ね――秋人の、そんなところが好き。大好きなの』
『私、ほんとはね――秋人の、そういうダメなところも好きなんだよ?』
あぁ……ダメだ、顔が熱くなる。
ばくばくと心臓が音を鳴らしはじめる。恋歌のあったかい体温を、やわらかい感触を、彼女の甘い匂いを――何かひとつを思い出すたびに、鼓動のスピードが上がっていく。
昨日の夜から、俺はずっとこんな感じだった。
そのせいでロクに眠れず……結局、寝坊ギリギリのところで目を覚ましたのである。
「っ、行ってきます!」
朝飯のパンを口の中に詰め込んで、俺は玄関を飛び出した。
……まずいな、と思う。身だしなみを整える時間がなかった。寝癖もネクタイも、きっと酷いことになっている。
こんな状態でもし恋歌に会ったら、また彼女に迷惑をかけてしま――、
「――あ、秋人! おはよっ」
亜麻色の髪をハーフアップにした、華奢な美少女。
藤咲恋歌――俺の幼なじみにして、初恋の相手である少女が、そこに立っていて。
ごくん。俺は思わず、パンを呑み込んでしまう。
「れ、恋歌? なんで……」
数ヶ月前までは、これが普通の光景だった。彼女は毎日のように、幼なじみである俺のことをこうして待ってくれていたのである。
だけど……最近は、別々に登下校するようにしている。
だから俺は、どうしてここに恋歌が、と純粋に疑問を抱いていた。
「秋人と一緒に登校したくて、待ってたの。……迷惑だった、かな?」
不安げな上目遣い。
恋歌は学園一の美少女だ。そんな彼女の可憐すぎる表情を前に、しがないモブ生徒である俺が耐えられるはずもなく。
「め、迷惑じゃない、けど……っ」
「そっか。えへへっ、嬉しい」
にへら。子供みたいな、明るい笑顔だった。
そのまま恋歌は、一歩、俺のほうへと近づいてきて、
「あ。秋人の髪、ぴょこんってなってる」
「うっ……こ、これは、その……」
「ふふっ。秋人、かわいい」
嬉しそうな声音だった。
……なんだよそれ、と思った。今までの恋歌なら、「だらしない」とか「ダメ人間」とか、そういう辛辣なことを言ってくるはずなのに。
「ね、秋人。寝癖、直してあげてもいい?」
「え!? お、おう……」
「えへへ、ありがとっ。んしょ、っと――」
そう言うと恋歌は、ちょっとだけ背伸びをして、俺の髪へと手を伸ばしてきた。
そのまま素手で、俺の寝癖に触れてくる恋歌。……近い、近すぎる。恋歌からはものすごく良い匂いがして、俺はやはりドキドキさせられていた。
「――うん、これでよしっと。ネクタイも、いい?」
「いや、それくらい自分でっ……!」
「……そっか。ごめんね、秋人。こういうの、やっぱり嫌だった……?」
今度は、しゅんとした作り笑いを浮かべてくる恋歌。
まるで撫でてもらえなかった子犬のような仕草だ。……なんだか胸が痛くなってくる。だから俺は、すうと深呼吸をしてから、
「……や、やっぱり、お願いしようかな」
「ほ、ほんと? うん、任せてっ!」
ぱあ。花の咲いたような笑み。
そんな恋歌の、ころころと変わる表情を見て。
やはり……おかしいな、と思う。
恋歌はいつも、俺に対してだけはツンケンしてたというか、辛辣な態度を取ってくることが多かった。まあそれを抜きにしても、俺は恋歌の優しいところに惚れていたのだが。
ともかく。今の恋歌は、どう見たって様子がおかしかった。
そして、思い出すのは――昨日の、あの会話。
俺のことが大好きだと言ってきた、恋歌の優しくて甘い言葉の数々。
(あれは……マジで、どういうつもりで言ったんだ……?)
そもそも恋歌は、俺のことを嫌いなんじゃなかったのか?
もし仮に、それが俺の早とちりだったとしても、大好きっていうのはどういう意味なんだ?
幼なじみとして? それとも……そういう意味、だと思っていいのか?
「――はい、できたよ。ありがとね、秋人っ」
恋歌は俺のネクタイを直してくれたあと、にっこりと幸せそうな笑みを浮かべた。
……お礼を言わなきゃいけないのは、俺のほうなのに。本当に、恋歌はどうしてしまったんだ。
じっと、彼女の顔を見つめてみる。
長いまつげ。綺麗な瞳。白い肌。桜色の唇――彼女のその可愛らしい容貌に、どうしても俺は見惚れてしまう。
「ん? 秋人、どうしたの? 私の顔、何かついてる?」
「いや……悪い、なんでもないよ」
「そうなの? ふふっ、ヘンな秋人っ」
楽しげに恋歌は微笑むと、その両手を後ろに回して、
「それじゃ、秋人っ。学校、行こ?」
「お、おう……」
昨日のアレは、どうやら夢でも幻でもなかったらしい。
俺の幼なじみは――やっぱり今日も、様子がおかしかった……。
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