第16話 初めての敗北、力の現実


 王国北部から届いた通達文書に、マリアベルは眉を寄せた。


 内容は、地方領主ドルメン伯爵家による“補助金の不適正使用”の疑惑。だが、それを告発した地方役人はすでに職を解かれていた。


「これは――明らかに、おかしい」


 口に出すより先に、彼女の思考は動き出していた。


* * *


「この件を調べさせていただきたいのです。少なくとも、収支報告書には不審な点があります」


 補佐官会議でそう進言したマリアベルに、年配の文官たちは一様に視線を交わした。


「ドルメン家に楯突くのか? あそこは財務局の後援も受けている」


「いくら宰相直属でも、若輩者が手を出して火傷するだけだ」


 冷ややかな反応。それでも、彼女は一歩も引かなかった。


「であればこそ、事実関係をはっきりさせるべきです。制度の健全さは、誰が相手でも守られるべきでしょう」


 その言葉に、一人の補佐官が苦笑した。


「おまえは正しいことを言ってる。だが、“正しさ”だけでは、この世界は動かんぞ」


* * *


 調査の許可は下りた。だが、それは同時に「放っておかれる」ことでもあった。


 手配も資料集めもすべて自力。赴任調整の文書も何度も差し戻された。

 だが、彼女は一人で荷をまとめ、北部へと向かった。


 雪の残るその町で、彼女は旧役人たちの聞き取りと、残された資料の精査に奔走した。


「この収支報告、三ヶ月分が帳簿から“ごっそり”抜けています」


「おかしいと思ったが……抗議した職員はすぐ左遷されてな」


 細い糸をたぐるような調査。疲弊した表情の地元職員たち。

 それでも、ようやく一通りの報告書をまとめたその夜――彼女の宿に、無言の“忠告”が置かれていた。


 扉の前の床に、ナイフが突き立てられていたのだ。


(……これは、警告)


 身の危険を感じながらも、彼女は震える手で書類をまとめた。


* * *


 王都に戻ったマリアベルは、調査報告書を提出した。


「疑惑の核心部分は掴みました。証言者も複数、記録の抜けも確認済みです。ただし……確証となる原本が、現地から“消失”しています」


 補佐官たちは静かに首を横に振った。


「それでは証拠不十分だ。――上には通せん」


 ヴァレンティス宰相も、しばし沈黙した後にこう告げた。


「動かぬ証拠がなければ、制度の信頼を崩すだけだ。……今回は引け」


 その言葉に、マリアベルの拳が震える。


「――……はい。了解しました」


 悔しさを噛みしめながら、彼女は報告書を下ろした。


* * *


 その夜、王宮の高窓から外を見下ろすクラリッサが、ふと呟いた。


「……まあ、最初の“つまずき”としては悪くない。見極めの目と、やり方を学ぶには、ね」


 女官たちのざわめきを背に、彼女は静かに紅茶を口にした。


* * *


 マリアベルの失敗は、静かに、しかし確実に広まっていった。


「無理もない。まだ若い」


「ドルメン家に喧嘩を売るとはな。政の駆け引きは、正論じゃどうにもならん」


「理想論だけでは、政務の場は動かないのだよ」


 庁舎内の廊下、会議後の控室、文官たちの集まる休憩室。

 冷ややかさと同情、嘲りと警戒が入り混じった言葉が、噂として小さな渦を巻いていた。


 だが、王太子カザエル・グランレイドは、それらの声を黙して聞いていた。

 報告書と帳簿の写しに目を落としながら、ふと視線を遠くに向ける。


「焦りはあっただろう。だが、あの帳簿の構造に気づいたのなら……掘り下げる目は確かだった」


 彼の指先が書類の一角をなぞる。


「情報が不完全だったのではない。伏せられていた、と見るのが妥当か。ならば――この敗北は、情報戦における“洗礼”だ」


 誰に語るでもなく漏れた言葉は、ひどく静かで、確信に満ちていた。


「……手を出すには、時期が早すぎたか。いや――」


 一拍置いて、目を細める。


「彼女は、“自分の目”で判断し、“自分の責任”で動いた。それができるなら、いずれ必ず勝つ」


 口調は穏やかだったが、眼差しには揺るぎないものが宿っていた。


「今はただ、その痛みを刻むとき。敗北が、剣よりも鋭く心を鍛える」


 窓の向こう、冬の終わりを告げる陽の光が、庁舎の石壁に淡く差していた。


* * *


 王政事務局の一角。


 誰もいない深夜の部屋で、マリアベルは書類を閉じた。


「……まだ、私は“力”になれていない。制度を動かすには、“仕組み”そのものを掴まなきゃいけない」


 マリアベルは静かに黒いペンを置いた。

 インクの乾きかけた報告書が、彼女の前に広がっている。


 今日、彼女の提出した報告書は訂正を余儀なくされた。

 重要な帳簿の一部が抜け落ちていた――誰かの意図か、自身の確認不足か、はっきりとした原因は分からない。だが結果は、容赦なく「失点」として突きつけられた。


 彼女の指先は、自然と万年筆へと伸びる。

 父レオンがかつてこう言って贈ってくれたものだった。


「このペンで書いた契約は、一度も訂正されたことがない」――と。


 マリアベルは、ゆっくりとその軸を指で撫でる。


「……ごめんなさい、お父様」


 声はかすかに震えていた。


 訂正させられたのは報告書か、自分の信念か。

 それとも、このペンが守ってきた“誇り”そのものか。


 彼女は小さく息を吸い、目を閉じた。


「でも……もう一度、立て直してみせる」


 その言葉は誰に向けたものでもない。

 ただ、自らを責める心に、抗うように紡がれた祈りのようだった。


* * *


 同じ夜、王政事務局の最上階、宰相室では――


 レグナード・ヴァレンティスが机に残された報告書に目を落としていた。


 静かな空間に、筆先のかすれる音だけが響く。


「――惜しい」


 彼は誰に語るでもなく、そう呟いた。


「視点は悪くない。いや、むしろ良すぎるのか……。踏み込むには、まだ時が足りない」


 指先で帳簿の写しをなぞる。


 確かにそこに“抜け”がある。文脈を読める者なら、隠された意図に気づくだろう。だが――


「この案件に踏み込めば、財務局と北部貴族連盟を敵に回す。

 今、そこに火を点ける余力は……王政側にも、ない」


 椅子に深く背を預け、目を閉じる。


「……わかっていた。だが、彼女に“自ら退かせた”のは――苦い選択だった」


 そして心の奥底で、別の声が問いかける。


(レオンの娘を、こんな形で傷つけてよかったのか?)


(だが、力とはこういうものだ。“正しさ”にだけ殉じていては、誰も守れない)


「マリアベル・クラヴィス……君がこの痛みの意味を理解できるなら、私は次の機会を用意する」


 その言葉は、宰相としてではなく、政を知るひとりの男の決意だった。


 政の世界に生きる以上、痛みも、理不尽も、受け止める覚悟がいる。

 だがそれでも――


「正しさを“折らずに生かす”方法を見つけられるなら……そのときこそ、君の時代が来る」


 窓の外、夜の王都を照らす月光が、静かに宰相の横顔を照らしていた。

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