第10話 論理は女を黙らせない


 学問院に入ってから二週間が過ぎた頃、ついにその機会が訪れた。


 憲政史の講義で、学年内の公開ディスカッションが行われるという告知がなされた。

 テーマは「王政と民意──どこに均衡点を置くべきか」。

 抽選で選ばれた三組が壇上で意見を交わし、聴講する生徒たちも採点に参加する形式。


「……マリアベル嬢、あなたが発言側に選ばれているわ」


 担当教授にそう告げられたマリアベルは、一瞬だけ筆を止めた。

 ざわつく教室内に、誰かが「女が論戦に出るのか」と囁く声が聞こえた。


 ──構わない。これは“女”としてではなく、“私”として挑むもの。



 論戦当日、学内の講堂は学生たちで溢れていた。


 壇上に立つのは三組六名。マリアベルは第一討論者として登壇する。

 対戦相手は、名門エレリック伯爵家の次男・ジュリアン。

 彼は学院内でも知識・弁舌ともに名高く、その強気な論調で知られていた。


「……王政において民意を重視しすぎると、統治は混乱しやすい。

 権威とは絶対的であるからこそ機能する。民の声は意見としては重要だが、政(まつりごと)の場においては限界がある。

 ゆえに、民意の均衡点は“提案権”までに留めるべきだ」


 ジュリアンの発言に、聴講席の多くが頷く。

 それは“貴族中心主義”の正論とも言える立場だった。


 マリアベルは、立ち上がる。


「確かに、統治の一貫性は重要です。けれど、統治される側が納得できなければ、それは“支配”に転じます。

 王政は絶対ではなく、持続するための信頼と同意が不可欠です。

 民意が反映される仕組みがなければ、いずれ政そのものが空洞化するでしょう」


 聴講席が一瞬静まり、ざわざわとしたざわめきが広がる。


 ジュリアンは笑みを浮かべながら応じる。


「理屈はもっともだ。だが、理想は現実に勝てない。

 我々は理想を語る学者ではなく、現実を操る政治家を目指す者だろう?」


「だからこそ、理想を持たねばならないのでは?

 現実を知った上でなお、より良い制度を模索するのが、この学問院で学ぶ意味だと、私は考えます」


 マリアベルの言葉に、後方の席からぱちぱちと小さな拍手が起きた。


 壇上に戻った彼女を、意外にもジュリアンが一瞥し、微かに口角を上げた。

 それは嘲笑ではなかった。むしろ、少しの“敬意”が含まれていた。


* * *


 論戦終了後、講堂を出ようとしたマリアベルの肩を、誰かの指先が軽く叩いた。


「なかなかやるじゃない、クラヴィスの令嬢さん」


 振り返ると、セラフィーナ・ヴォルテがいた。

 今日も完璧な巻き髪に、高級なインクが入ったガラスペンケースを持っている。


「正直、最初は“形式だけのお飾り”だと思ってたのよ。貴族の女の子が“政治に関心があるフリ”をする……ありがちな話」


 マリアベルは一瞬、眉を上げたが、言い返さなかった。


「でも、さっきの論戦。言葉の選び方が丁寧だった。詰めすぎず、でも要点は落とさない。相手の主張に乗っかる形で切り返してたわよね。……私、そういうの、嫌いじゃないわ」


「……ありがとう。でも、まだ私は、自分の意見をきちんと伝えきれてない気がして」


「誰だって最初はそう。でも、“伝えようとした”その努力って、空気がちゃんと感じ取るのよ。今日の講堂、あれだけ男子が多いのに、途中から静かだったじゃない?」


 セラフィーナはふっと笑った。


「“女でも論理を語れる”って、あの場にいた全員に知らしめたわけ。……あなた、たぶん味方も作ったと思うけど、敵も増やしたわよ」


「覚悟のうちよ」


「ふふっ、いいわね。私、そういうの嫌いじゃないの」


 くるりと踵を返しかけた彼女が、ふと振り返った。


「そうだ、マリアベル嬢。あなた、いつも黙って一人でいるけど、同盟を組むって選択肢もあるのよ」


「同盟?」


「そう。三人しかいない女の中で、ばらばらにいたら消されるだけ。だったら、一枚岩にはならなくても、“都合よく手を組む”ぐらいは考えておいてもいいんじゃない?」


 その言葉には、打算と誠実の両方があった。

 セラフィーナは、敵に回すと面倒な女だった。けれど味方になれば、頼もしいとも思えた。


「考えてみるわ」


「その返事が“はい”なら、もっと気に入ったのにね。……ま、いいわ。期待してるわよ、マリアベル嬢」


 そう言い残して、セラフィーナは颯爽と廊下を去っていった。


 その直後、別の方向から近づく気配がある。


「今日も……討論、よかった」


 背後から聞こえた声に振り返ると、アイリス・フォーセットが立っていた。

 薄紫の瞳が、ためらいがちにマリアベルを見ている。


「アイリスさん……ありがとう。見ていてくれたのね」


「ああいう場……私は苦手。でも、あのテーマは面白かった。あなたの言葉、無理がなかった」


「無理が……なかった?」


「現実も理想も、どちらも捨てないって、意外と難しい。でもあなたの話には、どちらもあった。……まっすぐで、ちょっと羨ましい」


 アイリスはほんのわずか、口元に笑みを浮かべた。


「私は、理屈はよくわかっても……誰かの前で話すと、全部飛んじゃうから」


「それでも、聞いてくれる人がいるって、心強いの。……ありがとう、本当に」


 しばらく沈黙が流れた。だが、アイリスはその沈黙を苦にするふうではなかった。


「それと……」


「ん?」


「セラフィーナさんと手を組むなら、気をつけて」


「え?」


「彼女、あなたのこと“面白い素材”だって思ってる。味方になることもあるけど……うまく使われることもあるわ」


 その言葉は冷たいわけではなかった。ただ、静かな事実として伝えようとしているのがわかる。


「……忠告、ありがとう。気をつける」


「私は、利用とか興味とかじゃなくて……あなたの言葉が好きだった。それだけ」


 アイリスはそれだけ言うと、本を胸に抱えて静かに去っていった。

 背筋の伸びた後ろ姿に、マリアベルは小さく礼を込めて、頭を下げた。


* * *


 夜、王都のタウンハウスに戻ったマリアベルは、父からの贈り物である黒いペンを取り出した。


 机に広げたノートに、今日の討論の要点を記しながら、自分の思考を補足していく。


「言葉は剣ではない。けれど、道を切り拓く鍵になる。

 女でも、貴族でも、誰であっても、考えることを許される場所でありたい」


 マリアベルは静かにペンを置いた。


 小さな論戦だった。けれど、確かに世界が少しだけ動いた気がした。

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