第2話 男尊女卑の壁
「――学問院に入学したいのです」
その言葉が、応接間の空気を凍らせた。
クラヴィス公爵邸の客間。
黒檀の家具が整然と並び、絵画と大理石が沈黙を保つ空間。
窓辺に立つ父、レオン・クラヴィス公爵の手が止まり、重い視線が娘に向けられる。
隣のソファには、母のカトリーナ。
刺繍をする指が小さく震えていた。
「……もう一度、言ってみなさい」
父の声は低く、怒りではなく戸惑いと拒絶が滲んでいた。
だが、マリアベルは一歩も引かずに言い直す。
「私は、王立学問院への入学を希望します」
部屋の空気がさらに重くなる。
その場に仕える侍女たちは、静かに下がっていった。――ここから先は、“家の中の争い”になるとわかっているのだ。
「何を――考えているのだ、おまえは」
父が口を開いた。
その声には、長年宰相家として王政に関わってきた者の重みがあった。
厳格で、冷静で、決して感情に流されることのない男。
だが今、父は明らかに感情を抑えきれずにいた。
「女が、学問院など……ほとんど聞いたことがない」
「前例がないわけではありません。
少なくとも、正式に申請した女性はこの五十年の間に四人しかいないと記録にあります。」
「だからこそだ。何十年も、いや、百年以上も守られてきた“秩序”を、おまえが壊すつもりか?」
「はい」
はっきりと、マリアベルは答えた。
「父上。私は、家のためだけの装飾品ではありません。この国の未来に貢献したい。知識を得て、政(まつりごと)を学び、私自身の意志で生きていきたいのです」
「おまえ、我が“クラヴィス”という家の名をどう考えているのだ!」
雷のような声が響いた。
だが、マリアベルは怯まなかった。
「だからこそです。クラヴィスの名が、“男しか鍵を持てない家”だと言われ続けることが、私は悔しいのです」
――言ってしまった。
頭の奥が熱を帯びていく。
けれど、心は静かだった。伝えなければ、何も変わらない。それをようやく理解できたから。
「……よろしいかしら」
沈黙の中、母が口を開いた。
柔らかく冷たい声。だがその内側には、別の強さが宿っていた。
「マリアベル。あなたが女として、美しく賢く生きてきたことは、母として誇りに思っているわ。けれど――“賢く”というのは、波を立てないことではないのかしら」
「私は、波を立てたくて生きているわけじゃない。でも、立ち向かわなければならない波は、あると思うの」
母は目を細めた。そして、ふと懐かしむように目を伏せる。
「あなたのお祖母様も、そういう人だったわ。……書庫にこもって、法律の本を読んでいた。“宰相の器”と囁かれたこともあったのよ。でも、女であるがゆえに、誰も彼女を舞台に上げようとしなかった」
その声はどこか寂しげだった。
「母上……」
「……たった一度の人生なのよ、マリア。あなたが何を求めているのか、それを私が止める資格はないのかもしれないわね」
父が、ゆっくりと立ち上がった。
「――だが、私は認めぬ。女が国政を語るなど、民の嘲笑を買うだけだ」
そして、背を向ける。
「私の許可なくして、学問院への推薦は不可能だ。以上だ」
足音が、応接間を去っていく。
静寂が残された。
マリアベルは立ち尽くしていた。
父の壁は、あまりに厚く、高い。――けれど。
「……手はあるわ」
母が立ち上がり、窓の方を見やった。
「学問院の女性卒業生はたったの四名。そのうち、いまも王宮に関わっている一人がいる。“家庭教師”として、――あの人なら、あなたに“女としての戦い方”を教えてくれるかもしれない」
「え……?」
「彼女の名は、クラリッサ・リース。
十五年前に特例で学問院を卒業し、いまは文官として王宮の記録室で働いている。……口は悪いけれど、頭はいい人よ。
幼なじみで、貴族学園のときも同級生でね……。あなたのお祖母様が可愛がって、いろいろと教えていたの」
クラリッサ・リース。
マリアベルは、その名を聞いたことがあった。
“女性官吏”という存在そのものがこの国では珍しく、文官職に就いている女性は、彼女一人だとも噂されていた。
「彼女に会わせてください。……お願いです、母上」
マリアベルの声には、ふるえがあった。
けれど、それは不安ではない。
閉ざされた扉の向こうに、初めて“次の鍵”が見えたのだ。
この家は母であるカトリーナの実家だ。男子に恵まれなかったクラヴィス家に学問院を首席で卒業したレオンが婿入りした。
レオンはクラヴィス家の血筋ではないこともあってか王室の文官としては高位だが、宰相にはなっていない。
レオンとカトリーナにもまた男子が生まれずマリアベルひとりなので、マリアベルが婿をとっても宰相にならない可能性があり、カトリーナの妹の子である、従兄のディランがクラヴィス家の養子に入ることを考えているようだ。
その夜、母から密かに出された手紙には、こう記されていた。
『娘が志を抱いております。
彼女の力に、なっていただけませんか。
……クラヴィスの名を、変えていくのは彼女かもしれません。
母としては、彼女に正しい恐れ方と、正しい戦い方を学んでほしいのです』
その筆跡は、たおやかで、強かった。
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