第30話
「これより、中央議会総務局における初期導入研修を開始する。私語は一切厳禁。では整列。」
「物腰が柔らかいです。」
「これより、中央議会総務局における初期導入研修を開始する。私語は一切」
「まだ柔らかいです。」
「これより!中央議会総務局における!初期導入研修を開始する!私語はぁっ!」
「焦っているように見えます、リリアナ。」
リリアナは今、絶望の淵にいる。
初任者研修チームが始動し、アグリィ・ユベールによる演技指導が始まった。
そしてすぐに、この壁を越えられる日は来ないのではないかと思い詰めた。まさか一年前のあの台詞たちが、全て原稿だっただなんて。
「これより、中央議会総務局における初期導入研修を開始する。私語は一切厳禁。では」
「目が泳いでいます。まっすぐ視線を定めて。」
指導官がぐらついていては示しがつかない。プレッシャーに背中がじっとりと汗ばむ。
「これより、中央議会総務局における初期導入研修を」
「リリアナ、腹式呼吸です。声が小さい。」
早くも憔悴しているリリアナを生暖かく見守っているギャラリーがいる。にやにやしている王太子妃フィリーネ。お付きの内廷局局員はもちろんミリー。凝視し過ぎて目つきが危ない。それから儀典接遇課の職員たち。その他、面白がって練習をのぞきにくる同窓生。
演技指導の最初にリリアナがあまりに挙動不審だったのをくすくす笑ったギャラリーに向かって、アグリィ・ユベールがぴしゃりと注意してから、みな真面目な顔をして静かに見守っている。
「ユベールさん、去年より指導官っぽくなったな。」
「ていうか、なんか凛々しいっていうか」
「え、かっこいい」
ひそひそと囁き合うギャラリーを横目に、アグリィ・ユベールは再びリリアナに向き合う。
「もう一度、最初から。」
静かながら容赦のない個人指導にリリアナが心折れかけていたその時。
アグリィ・ユベールがすっと敬礼したのに気づいて視線を上げたリリアナは、慌てて同じように敬礼した。
王妃テオドラがリリアナの母アメリアを連れて入室してきたのだ。
「どうぞ、続けて。」
「はい、陛下。」
アグリィ・ユベールは取り乱すことなくリリアナへの個人指導を再開したが、リリアナは突然のお出ましに心中穏やかとはなれず、やればやるほど空回りして口も回らなくなってきた。なんとかせねばと思うほど全身が強張り言うことを聞かない。
軽くパニック状態のリリアナは気づく余裕もなかったが、見かねたアメリアが「ちょっと宜しいでしょうか」と王妃に断り、リリアナのそばまでやってきた。
アグリィ・ユベールが一歩下がって譲る。
「わ、お、お母様」
「真っ直ぐ立ちなさい。」
慌ててリリアナは姿勢を正す。
「つま先立ちになっています。しっかり地面を掴みなさい。」
「は、はい。」
「前屈。骨盤を立てる。背骨を一つずつ、上に。」
「はい」
基本の立ち姿勢である。踵を肩幅分空けて、どちらかというと体術の基本姿勢に近い状態になった。
「
瞑想し、己れと向き合う、という所作である。
リリアナはハッとして、静かに目を閉じた。
(己れの中にあるものを見よ。)
恐れ。恥じらい。照れ。焦り。困惑。
なぜこんなことをしているのか。なぜ自分はここにいる。
なんのため。
リリアナは少しずつ平静を取り戻し、小さく呟いた。
「為すべきを為します。」
「宜しい。では初めから。」
リリアナは一度ゆっくりと息を吐き、そして己れを鼓舞するように息を吸った。
「これより、中央議会総務局における初期導入研修を開始する。私語は一切厳禁。では整列。」
一瞬、ギャラリーが息を呑んだ。
堂々たる風格のアメリア。
水晶のように涼やかなアグリィ。
そして、たった今翼を開いたリリアナ。
まるで戦女神たちが作戦会議をしているかのような、一幅の絵画の如き劇的な光景であった。
「貴様らは、貴族であろうと平民であろうと今日から『局員』である。」
「もっと上から見下ろしなさい。」
「貴様らは、貴族であろうと平民であろうと」
「この台詞の時に表情が崩れるのがいるかチェックするのよ。大体はこの後に指導が必要になるから。」
「私の名はリリアナ・エルフィン。総務局所属。初期教育指導官だ。」
ギャラリーから小さな悲鳴が上がる。
ミリーが悶えて後ろの柱に頭を強打したのだ。
「ミリー、医務室に行ってらっしゃいよ、血が出ているわ。」
「いいえここにいさせてください見逃したら一生後悔する」
「ばかねぇ」
言いながら、新入局員をいたずらに緊張させないために本番は見ることができないフィリーネは、まるで観劇の気分でその光景を楽しんでいた。
指導杖も貸与され、台詞の練習と指導内容の確認を済ませる。
ひと通り個人指導が終わった。
ギャラリーで最後まで残っていたのはミリーとフィリーネの二人だった。王妃テオドラは執務のためほどなくして退出し、他の局員たちもいい加減業務に戻れとアグリィに叱られて散っていった。
「殿下、ご高覧いただきありがとうございました。」
アグリィの一礼に、フィリーネはちゃんと品格を保って返す。
「見事でした、ユベール指導官。」
リリアナも一仕事終えた晴れやかさで微笑む。
「お二人のおかげで、本番さながらの緊張感を持って練習できました。本番も尽力いたします。」
するとアグリィがキョトンとして付け加える。
「リリアナ、スケジュールを見たでしょう?明後日にリハーサルよ。ここでもう一度通しで練習よ。」
「えぇぇっ?!」
よく聞けば、局員を研修会場にかき集めて『本番さながら』のリハーサルを行うという。来れる局員を総動員して会場を埋めることで、会場後方まで声が届くかどうかチェックするというのだ。
「ほとんど見せ物じゃないですか、それ!」
「そうかもしれないけど、でもリハーサルが一番効果的なのよ。人間って音を吸うでしょう、思っている以上に後ろには声が届きにくいのよ。腹式呼吸、忘れずにね。」
リハーサルが一番緊張するから、おかげで本番の方は気楽にできるようになるわよとアグリィは笑った。
そりゃそうでしょうね、とリリアナは呆然と立ち尽くす。更によく聞けばアグリィの祖父が議会議員なのだそうで、アグリィの時には中央議会議員の重鎮たちも見にきたらしい。
「個人指導をするとみんな喜んで真面目にやってくれるのよ。指導杖を向けられると懐かしいって、ふふ。」
「そんな宴会みたいなノリで勤務中の人間を?!」
「外務柱の課長たちが協力的でね、態度の悪い新人局員役をやってくれるから、遠慮せず個人指導の練習と思ってやってね。」
「あの初任者研修に、こんな裏事情があったなんて…思いもしませんでした…」
そうよね、とアグリィはコロコロと笑った。
「礼!」
カンッ。
リリアナは指導杖を床に打ち鳴らし、会場いっぱいの人だかりに向かって声を張る。
開けてみれば、課長級どころか現王夫妻に王太子夫妻、三つある公爵家の夫婦、侯爵位の面々など、国家行事かと目を疑う面子が勢揃いして新人局員役として会場を埋め尽くしている。本番より人数がいるかもしれない。
初めはさすがに緊張していたリリアナだったが、なんと現王レオニスが率先して姿勢を崩してアピールする。『態度の悪い貴族子息』の役らしい。見て見ぬふりをしようとするリリアナに王妃が現王を指差して指名を促す。もうどうにでもなれとリリアナはやけっぱちで声を張り上げた。
「名は。」
「バヤルスタン王室レオニスです。」
『貴様』とは言えないリリアナである。
「私は何と言った?」
「名は、と」
「耳は聞こえているようだな。ここにいるのは皆、局員だ。家の名ではない、己れの名を答えよ。これより家の名を振りかざす者は特別訓練プログラムの対象者とする。片時も忘れるな、家の名を語るのはそれが『国益に利する場合』のみだ。」
「はい」
なんと殊勝な返事であることか。親子ほども歳上の現国王であるというのに。なぜそんなに嬉しそうにしているのだ。
しかしこれでリリアナも覚悟が決まった。
外務柱の長である柱官始め軒並み姿勢の悪い課長級たちに向かって檄を飛ばし、指導杖を何度も振るった。その中にニヤニヤ笑うマクシム・イシュマエルを認めて、後からダメ出しされるよりはと、きっちり個人指導をしておいた。
「やり直しだ、全員初めから!」
ひと通り初任者研修のプログラムをさらい、最後にリリアナが参加者へ一礼すると拍手が贈られたのだった。
(確かに、本番ももう怖くないわ。)
こんな経験をすれば、新人局員など恐るるに足らず。
協力者の中にはかの銀薔薇閣下を知る人間も少なからず居て、密かに悩ましい嘆息がもれていたことは、リリアナは気づいていない。
まるで悪ふざけかとすら思われる催しであるが、『国の礎』と自認する中央議会総務局。誰もが胸に抱いている。
汝、礎たれ。初心忘れるべからず。
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