第13話

「リリアナ…?」


 レイナの気遣わしげな声に、リリアナはゆっくりと振り返った。





 夜遅く、執務室に戻ったリリアナは、山積みの書類の前で手を止めていた。

 そこへ書類の束を抱えたレイナが、ひょこりと顔をのぞかせたのだった。


「レイナさん」

「なにか…あったの?」

 いつものように穏やかな声。リリアナの緊張が緩んで、気弱な下がり眉になった。



 なんと言うべきかと迷った末、リリアナは口を開く。

「レイナさん……もし、が、貴族としての『あるべき姿』を逸脱していたとしたら、どう思いますか?」

「…というと?」

「婚約者と、その…必要以上に親しくしたり、ですとか」


 レイナはただ、静かに目を伏せた。

「そう」

「結婚までは、その、相応しい振る舞いをすべきですよね。」


 レイナは、そっとリリアナの隣に腰を下ろした。

「リリアナ、あのね…私、子どもが望めない身体なの。」


 リリアナは絶句して、ただレイナを見た。信じられなかった。それは貴族令嬢にとって致命的なことに思われた。

 だが、意外なことにレイナに悲壮感はない。

「私は…侯爵家の出で…親の決めた婚約者もいたけれど、まあ…それで職場ここは…安心できるところ、というか」


「…」

 リリアナは何も言えずにいた。頷くのもおかしいし、謝るのは大変失礼なことのように思われた。


 しかしレイナは、思いつめた表情のリリアナをみて慌てて続ける。

「あ、あのね、違うの…歳の近い親戚がね…私のこと、可哀そうって言ったの。でも…私には、母になることだけ考える人生から、解放されたように…思ったの。女性って…夫を比べて、こどもを比べて、家を比べて…そういう生き方はできないなって、ずっと思ってたから」


 レイナの言葉に、リリアナはまさしく目からうろこが落ちる思いだった。


 その通りだ。結婚したら自分は何者になるのだ?考えたこともなかった。

 結婚して、子を産み、夫をたてて家を守る。もちろん価値のある生き方だと、巡り巡って国を支える人生だと思ってきたけれど。

 

 レイナは澄んだ瞳でリリアナに告げる。


「だから、外から見てる私としては…どっちでもいいと思う」

「は…え?なにがですか?」

「婚前交渉の話…じゃなかったっけ?」

「あ、そうでした」

 はっきりとは言わなかったはずなのだが、とリリアナはもはや気まずく思った。レイナの話の前では些細なことのように感じる。

「どっちでもいいよ、そんなの…他人だし」

「確かに、そうですよね」


 自分の正しさを相手に押し付けようとしていたことに気づき、リリアナは落ち込んだ。



 そんなリリアナを見て、レイナは心配になった。

「だけど…結婚してから初めてするのはリスキーだとは、思う…判例でも、いろいろ揉めてるし…」

「え?!そうなんですか?!」

「家庭法の裁判実例集にいくつか載ってたよ」


 レイナは各種判例集を網羅している。

 採用試験のためにはいくつか専攻すればいいのだが。

 レイナは聡かった。


「一昔前は、女の子は性交渉が何なのかも教えられないまま結婚してたから…今考えるとやばいよね…」

「…」

「リリアナはちゃんと教わった…?判例みてると、なんていうか…潔癖な子だったんだろうなって思う事例が多かったから」


 リリアナは眩暈がして、片手を額に当てた。

「レイナさん…私、そんなに潔癖じゃないです」

「リリアナ…人の恋愛事情にどうこうケチつけてる時点で潔癖だと思う。」


 珍しくレイナに言い切られ、リリアナは絶句した。


「潔、癖」

 レイナは手を上下に振る。

「悪いことじゃないよ、リリアナ…性格だから」


「レイナさん、また相談乗ってもらっても…いいですか」

「うん」


 もう帰りなさいとレイナに諭され、リリアナはぐったりと重い体を引きずって帰宅した。










 いつの間にか、リリアナは迷っていた。

 今まで自分が住んでいた小さな部屋の壁が突如としてぐらつき、崩落した。

 そしてその先には、果ての見えない、どちらへ進めばいいのかもわからない暗い夜が広がっていたのだ。


「どうしたい?」

「どっちにするの?」

「どこへいきたいの?」


 森の闇がリリアナを追い立てる。


「リリアナ」

 微笑む婚約者に駆け寄ろうとするのに、足が絡まって前に進めない。

「ミリー!助けて!」

「もちろんだよ、さあ全て男に委ねて」


「違う、ミリー、私は」

 ふと、己が一糸纏わぬ姿であることに気づき、リリアナは悲鳴を上げた。




「素晴らしいことよ。」


 森中に王女の高笑いが響き渡る。


 リリアナは一晩中思い悩み、夢の中でまで悶え苦しんだのだった。



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