第2章 イシスの影 2

 リリアの家は、ルフィアの店からさほど離れてはいないが、この都市では上流階級と呼ばれている者達が、多く住む住宅街に有った。

 「マクシミヌス様。ここがリリアさんのおうちです」

 マクシミヌスと一緒の馬車に乗っていたサフィーネは、マクシミヌスにリリアの家を指差した。

 「今日こそは、リリアさんにダンケを紹介しないと!」

 「リリアさんは、ダンケに会った事が無いのか?」

 「ええ、リリアさんからはダンケを家で飼っても良いと言われていましたし、リリアさんならダンケを可愛がって呉れる事は分かっていました」

 「それなら、何故?」

 「リリアさんは独身なので、わたくしとダンケが仲睦なかむずまじくしていると、リリアさんが少しばかり淋しいお気持ちに成られるかなと・・・」

 恐らくそんな事は無い筈だったが、サフィーネらしい心配りだとマクシミヌスは改めてサフィーネに感心した。


 「どなたですか?」

 その時、マクシミヌスとサフィーネの話し声を聞き付けたリリアが、玄関から姿を現した。

 「サフィーネちゃん、お帰り!それからアレクセイさんじゃ有りませんか?お二人がご一緒とはお珍しい。まあ、この子がダンケなの?何て可愛いのかしら!」

 そう言うと、リリアはサフィーネからダンケをふところに受け取ると、赤子をあやす様に自分の胸の中で、ダンケをゆっくりと左右に振った。

 ダンケは、初対面のリリアの顔をぺろぺろと舐めた。

 きっと、ダンケは動物の鋭い勘で、相手が味方か敵かを感じ取るのだろう。

 マクシミヌスはそう思った瞬間、そう言えばルフィアの勘も鋭い事を思い出した。

 ルフィアも、女と言う名の動物なのだろうか?

 そう考えた時、マクシミヌスの背中に冷たい物が走って、マクシミヌスはぶるっと身震いをした。


 ダンケに眼を輝かしていたリリアが、マクシミヌスの姿を見付けると、慌ててダンケをサフィーネに返してマクシミヌスの前で跪いた。

 「ブルガリア侯マクシミヌス総督様に気が付かず、大変な失礼をしてしまいました」

 「止めて下さい、リリアさん。俺は今日だけで何回、止めて下さいと言った事か。兎に角、立ち上がって下さい」

 マクシミヌスは苦笑しながら、リリアの両手を取って立ち上がらせた。

 「リリアさんは俺を知っているのに、俺の方はリリアさんを知らない」

 「ご冗談を!このエディルネ市民で総督様のお顔を知らない者などいませんわ。それにわたしはズドラヴェイで、総督様とマダムがお話に成られている所を、遠目で拝見した事がございます」

 「リリアさんは、ルフィアの店を手伝って呉れているとの事で、俺からも礼を言います。ですが今日は、それ以外にリリアさんには御礼と報告が有ってこちらに参ったのです」


 マクシミヌスの眼からは、リリアはルフィアよりも5,6歳は年上に映った。

 まあ、俺に女の年なんて分かる筈も無いが。

 マクシミヌスは、自嘲気味に頭を掻いた。

 リリアには、ルフィアの様な妖艶さは全く無く、清楚で貞淑な婦人の様にマクシミヌスには感じられた。

 恐らく彼女は、店の酒席には出ていないだろう。

 「総督様が、わたしに御礼とご報告ですか?」

 「ああ、そうだよ。じゃあ、先に報告の方から済ませよう。実は俺とサフィーネは最近、婚約したんだ」

 「えっ?婚約?」

 リリアは俺の言葉に驚いて、その清楚な瞳を何度もぱちくりとさせた。


 「リリアさん、私達夫婦も先程、総督様とサフィーネからその話を聞いて、驚いたばかりなんですよ」

 それまで黙していたアレクセイが、言葉を挟んだ。

 「サフィーネちゃんが総督様と婚約したなんて!何て素敵な事でしょう。ああ、お二人を何と言って祝福すれば良いのか、わたしには言葉が見つかりませんわ」

 リリアは、アレクセイの妻コーネリアとは異なる興奮状態に成ったが、それも全てはサフィーネが皆から可愛がられている事のあかしだった。

 「サフィーネは、有り難い事に今日から総督様のお館で寝泊まりをする事に成ったので、これまでのリリアさんのお世話に対して御礼を言うべく、私も総督様にご一緒させて戴いたのです」

 「まあ、婚約して直ぐにご一緒に住まわれるなんて!お二人の末永いお幸せをお祈り申し上げます」

 リリアは、サフィーネの両手を取ると「本当に良かったね、サフィーネちゃん」と言って、サフィーネを心から祝福した。


 「アレクセイさん、わたしの方こそ、これまで過分な金額を頂戴していて心苦しく思っておりましたので、本日、改めて心から御礼を申し上げます」

 そう言って、リリアはアレクセイに頭を下げた。

 マクシミヌスが想像していた通り、アレクセイは無理をして、リリアには過分な額を包んでいたのだ。

 サフィーネは差し当たり生活に困る事は無いが、清貧に甘んじるベリガウス殿は、俺が直接、金品を渡しても受け取らないだろう。

 ここはアレクセイが商売で儲ければ、間接的にベリガウス殿の生活も楽に成る筈だ。

 腕組みをして考えていたマクシミヌスに、一つの策がひらめいた。

 そうだ!アレクセイの店から大量の薬を買えば良いのだ!

 丁度、我がブルガリア軍の兵士達は前線から戻ったばかりで、戦いでの傷が未だ癒えていない者も少なからずいる筈だ。

 彼らにアレクセイの店から調達した傷薬を、俺の名で配れば、俺は彼らからは感謝されるしアレクセイの店もうるおう。

 幸いな事に、今回のゴート族との決戦では、ローマは惜しみなく戦費を贈って来ていて、蓄えは未だ可成りの額が残っている。

 それもその筈、若し俺がゴート族との決戦に敗れれば、ゴート族がブルガリアの地に雪崩なだれれ込んで来て、ローマの尻にも火が点くからだ。

 何しろローマ軍は、弱兵のかたまりだからな。

 百戦練磨のゴート族の軍隊に勝てる訳が無い。

 珍しく思い付いた自身の良策に満足して、マクシミヌスはサフィーネの真似をして、ふふふと笑った。

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