第十二話:生かすか殺すか、呂蒙の深慮

第十二話:生かすか殺すか、呂蒙の深慮

関羽捕縛という、呉国始まって以来の快挙は、孫権の元にもたらされ、呉の朝廷と軍営は歓喜に沸いた。

長年の懸案であった荊州の地は完全に呉の版図となり、そして何よりも、宿敵とも言うべき関羽を生きたまま捕らえたのである。

孫権は、この歴史的偉業を成し遂げた呂蒙の功績を、最大限の言葉で称賛した。

「子明、まことによくぞやった!そなたの働き、見事というほかない!」

しかし、捕らえられた関羽の処遇を巡っては、呉の陣営内でたちまち激しい議論が巻き起こった。意見は大きく二つに割れた。

多くの将帥たちは、「関羽は、長年にわたり我が呉を侮り、傲慢無礼な態度をとり続けてきた。今こそ彼の首を刎ね、後顧の憂いを完全に断ち切るべきである」と強硬に主張した。

特に、過去に関羽との折衝で煮え湯を飲まされた経験のある張昭のような文官や、彼の武勇に苦しめられてきた韓当、周泰といった武将たちの声は、ひときわ大きかった。

孫権自身も、関羽を生かしておくことの潜在的なリスクを考慮し、一時は斬首の断を下すことに傾いていた。

権力者とは、常に最悪の事態を想定し、非情な決断を下さねばならぬ時がある。

その時、呂蒙が、群臣の前に静かに進み出た。

「陛下、今しばらくお待ちください。関羽を殺すことは、赤子の手をひねるよりも容易いことでございます。しかし、その行為によって、我々呉国は一体何を得、そして何を失うことになるでありましょうか。」

呂蒙の声は、興奮する群臣たちの中で、際立って冷静であった。

「関羽を殺せば、劉備の恨みは骨髄にまで達し、蜀との修復は未来永劫不可能となりましょう。それは、ただ漁夫の利を魏に与えるだけの愚挙にございます。関羽は、確かに我らにとって厄介極まりない敵でありましたが、その天下に轟く名声と、蜀軍における絶対的な影響力は、我々も認めざるを得ません。彼を生かし、蜀との外交交渉における最大の切り札とする。これこそが、国家百年の大計を見据えた、真に戦略的な判断ではないでしょうか。」

「しかし、子明よ」孫権は、なおも懸念を隠せない。「あの関羽のことだ。生かしておけば、いつ我らにその鋭い牙を剥いてくるか分からぬぞ。虎を檻から解き放つようなものではないか。」

張昭もまた、厳しい表情で進言した。「呂蒙殿の申されることも一理ござろう。されど、関羽を生かす危険は計り知れませぬ。彼の義侠心と劉備への忠誠は天下の知るところ。いかに厳重な監視下に置こうとも、必ずや再起の機会を窺い、我が呉に牙を剥くでありましょう。ここは非情の決断を下し、禍根を断つべきと愚考いたします。」

呂蒙は、張昭の言葉にも冷静に答えた。「張昭殿のご懸念、まことにもっともでございます。故に、その猛虎の牙と爪を抜き、決して自由な行動を許してはなりませぬ。厳重なる監視下に置き、その一挙手一投足を見張ることは絶対の条件でございます。しかし、彼の命を奪うのは、全ての外交的手段を尽くし、それでもなお益なしと判断された、最後の最後まで待つべきかと存じます。劉備がもし、義弟の命と引き換えに、我が呉にとって有利な条件での和睦を呑むならば、それもまた呉の国益に繋がりましょう。彼を殺してしまえば、そのような交渉の余地すら永遠に失われます。そして、関羽を生かすことで、我々は蜀に対し、『呉は必ずしも血に飢えた侵略者ではない』というメッセージを発することもできます。これは、将来的な呉蜀関係の再構築において、決して小さくない意味を持つはずでございます。…そして、張昭殿のご懸念通り、関羽を生かすことには当然大きな危険が伴います。故に、彼の監視体制は、単に江陵に幽閉するに留まらず、私の腹心中の腹心である熟練の間諜数名を常に近侍させ、彼の言動、書簡のやり取り、面会者、その全てを昼夜分かたず記録し、陛下と私に逐一報告させる体制を構築いたします。また、蜀への影響力を考慮し、彼の家族や旧臣たちへの懐柔工作も並行して進め、彼が万が一にも呉に反旗を翻すような愚を犯さぬよう、あらゆる心理的な布石を打ってまいります。猛虎を檻に入れるだけでなく、その牙と爪を常に研ぎ澄まさせぬよう、細心の注意を払う所存です。」

呂蒙の言葉には、冷徹なまでの戦略的計算と、呉の輝かしい未来を確実なものにしようとする、深い洞察と先見の明が込められていた。

孫権は、呂蒙の言葉の奥にある、その真摯な思いを汲み取り、そして張昭ら反対派の意見も十分に吟味した上で、深く頷いた。

「分かった、子明。そなたの深慮、朕の心に響いた。群臣の中には異論もあろうが、朕はそなたの戦略的判断を信じる。関羽の処遇については、そなたに一任しよう。呉の国益を最大限に慮り、最善の判断を下してくれ。」

こうして、関羽は、呂蒙の深慮によって辛うじて斬首の運命を免れ、荊州の拠点である江陵に、厳重な監視のもと幽閉されることとなった。

その処遇は、決して囚人として粗略なものではなく、呂蒙の細やかな配慮により、最低限の武人としての敬意は払われた。

この呂蒙の、一見非情とも思える、しかし極めて戦略的な判断が、後の呉の国家の運命を、そして三国全体の歴史の流れを、大きく左右することになるのである。

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