第39話

ガイオン様の口から語られた『獣化病』の現実は、俺が想像していた以上に深刻で、そして悲しいものだった。


その病は、ある日突然何の前触れもなく発症する。昨日まで家族と笑い合っていた穏やかな者が、次の日には理性を完全に失い、ただ破壊衝動に駆られる凶暴な獣へと成り果ててしまうのだという。


「病にかかった者はもはや、言葉も通じぬ。家族の顔さえも忘れ去ってしまう。そしてただ、同胞を襲い傷つけることしかできなくなる……。我々は断腸の思いで、彼らを捕らえ森の奥深くにある、特別な施設に隔離するしか術がないのじゃ……」


ガイオン様の声は、悔しさと悲しみで震えていた。一国の王として、そして民を愛する父としてその苦しみは、計り知れないものだろう。


「原因は、全く分からないのですか?」


リリアさんが、専門家としての見地から静かに尋ねる。


「うむ。国の全ての賢者、全ての呪術師があらゆる手を尽くしたが、全く……。ただ発症する者には、一つの共通点があることが分かっておる」


「共通点、ですか?」


「ああ。それは皆、心に何らかの深い傷や、大きな悲しみを抱えておった者たちじゃということじゃ。愛する者を失った者、大きな失敗をして自信を失った者……。まるで心の弱みに、付け入るかのようにその病は、襲いかかってくるのじゃ」


心の弱み……。その言葉に、俺とリリアさんアロイスさんは、何かを感じ取っていた。


翌日、俺たちはガイオン様の案内で、獣化病の患者たちが隔離されているという森の奥の施設へと向かった。そこは頑丈な柵で囲まれ、厳重な警備が敷かれた重々しい雰囲気の場所だった。


施設の中に入ると、いくつもの独房から獣の苦しげな、そして悲痛な唸り声が聞こえてきた。その声は聞いているだけで、胸が締め付けられるようだった。


俺たちは、ガイオン様に導かれ一つの独房の前に立った。中には一頭の、巨大な灰色の狼が力なく横たわっていた。その瞳はうつろで、生気を感じられない。だが時折思い出したかのように、ガリガリと鉄格子を爪で引っ掻き、苦しげな遠吠えを上げるのだ。


「こやつは、バルガ。かつてはわしの右腕としてこの国を守ってくれた、誰よりも勇敢でそして心優しき戦士じゃった……。じゃが三ヶ月前、最愛の妻を病で亡くし、その悲しみに暮れていた矢先にこの病に……」


ガイオン様が、悔しそうに唇を噛みしめる。


俺は、意を決してその独房の前にそっと屈み込んだ。そして『動物親和EX』の力を、最大限に高め狼……バルガの、魂の奥深くへと語りかけた。


(バルガさん……聞こえるかい?俺だよ。君を助けに来たんだ)


すると、俺の頭の中にバルガの、苦しみに満ちた魂の叫びが、直接流れ込んできた。


『……くるしい……!くらい……さむい……!たすけてくれ……!俺は、俺でなくなりたくない……!』


そして、俺には見えた。彼の魂がまるで黒く、そして粘着質な霧のようなものにがんじがらめに縛り付けられ、その輝きを失いかけている姿が。これは……ただの病気じゃない。魂そのものを、蝕む呪いだ。


俺が、そのことをみんなに伝えるとアロイスさんが、すぐに携帯用の最新の鑑定装置を取り出した。そして独房の隙間から、バルガの体に向けて解析の光線を放つ。


ピ、ピ、ピ……と電子音が鳴り響きやがて、装置のモニターに信じられない結果が表示された。


「こ、これは……!やはりそうか……!彼の体内から極めて特殊な、魂に直接作用する精神汚染型の呪毒が検出された……!これは精霊王様が言っていた、虚無の因子とはまた質の違う、もっと陰湿で悪意に満ちた毒だ……!」


アロイスさんが、驚愕の声を上げる。


「精神汚染型の、呪毒……」


リリアさんが、その言葉に何かを思い出すようにハッとした。


「もしや……!古文書にあった、あの幻の毒キノコ……!」


リリアさんは、すぐに俺たちが持ってきていたアトリエの書庫の資料の中から、一冊の本を取り出しそのページを開いた。


「これですわ!『月影茸(ムーンシャドウ)』……!強い負の感情に共鳴し、人の魂を蝕む猛毒の胞子を撒き散らすという、呪われしキノコ……!」


そのキノコの絵は、黒くそしてどこか不気味な三日月のような形をしていた。そしてその説明文には、こうも書かれていた。『このキノコは多くの悲しみや憎しみが染み込んだ、呪われし土地にしか群生しない』と。


呪われし土地……。


その時、俺の隣にいたフェンがぴくりと、その白い耳を動かした。そしてガイオン様が指さした、『嘆きの谷』の方向をじっと見つめている。


『レオン……。あっちの谷の方からすごく、悲しい匂いがする……。ずっとずっと昔のたくさんの人たちの、涙と怒りの匂いが、地面の下から染み出してくる感じがするよ……』


フェンの、その言葉。リリアさんが見つけた、古文書の記述。そしてガイオン様が言っていた、心の弱った者から発症するという病の共通点。


全てのピースが、一つに繋がった。


「ガイオン様。その『嘆きの谷』について、詳しく教えていただけますか」


俺の真剣な問いに、ガイオン様はゆっくりと、その重い口を開いた。


それは、この国がまだ一つの王国として統一される遥か昔の物語。当時この大陸には、いくつもの獣人族の部族が互いに覇権を争い、絶えず血で血を洗う長い戦乱の時代があったのだという。


そして、その最後のそして最大の決戦が行われた場所こそが、あの『嘆きの谷』だったのだ。数えきれないほどの獣人たちの血と、涙とそして怨念が、その谷の土には深く深く染み込んでいるのだと。


「戦が終わった後、我らの祖先はその谷を、二度と誰も足を踏み入れてはならぬ禁足地として封印した。じゃが……まさかその古の悲しみが、数百年もの時を経てこのような形で、我らを苦しめることになろうとは……」


ガイオン様は、天を仰ぎ静かに、そして悔しそうにそう呟いた。


原因は、完全に明らかになった。嘆きの谷に溜まった古の怨念が、幻の毒キノコ『月影茸』を活性化させその呪いの胞子が、風に乗って国中に広がった。そして心に傷を負い、魂が弱っていた者たちがその胞子を吸い込み、獣化病を発症してしまったのだ。


「なんて、悲しい連鎖なのでしょう……」


リリアさんが、胸を押さえ悲痛な声で言う。


だが、悲しんでばかりはいられない。原因が分かったのなら、俺たちにはやるべきことがある。


「ガイオン様。嘆きの谷へ、俺たちを案内してください。そしてこの国に住む、全ての獣人の皆さんにも協力をお願いします。この悲しい歴史に俺たちで、完全に終止符を打ちましょう」


俺の言葉には、強い決意がこもっていた。


「そしてバルガさんたち、病にかかってしまった人々のことも心配はいりません。俺たちが、必ず元の姿に戻してみせます」


俺がそう宣言すると、独房の中で力なく横たわっていたバルガのそのうつろな瞳に、ほんのわずかだが確かな希望の光が、キラリと宿ったのを俺は見逃さなかった。


俺たちの、この国を救うための本当の戦いが、今始まろうとしていた。

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