第35話

 普段ならこんな曇り空、出勤の足取りは重い。が、たかが日記、に、大げさだが、闘いを挑む決心がついたことで不思議と軽かった。


 こっちから見てやる。恐れるものか。


 デスクには昨日までとりかかっていた商社との折衝案件の書類が散っていた。


 そして、その下をのぞいたが、引き出しは閉まっていた。しばらくじっとみつめていたが、意を決し獲物を捕らえるようにガサっと開けた。


 日記はまっすぐ風呂敷の中に納まっていた。


「課長、お電話ですよ」


 さっきから電話が点灯しているのに気づかなかった。うるさいので音を小さくして点滅に設定していた。


 一郎は急いで、受話器をとった。


「キミね、困るじゃないか」


 人事部長からだった。入社以来、大会議室でしか会ったことのない、社内で誰もが知る横柄な男だった。役職付きの社員には緊急用の連絡シートが配布される。


「奥さん、何度もキミに電話したらしいが、出ないって。今朝、早くに僕に連絡があった。お義父さんが危篤らしいよ、すぐ連絡しろよ」


「それは…すいません、お手数かけました…」


 電話口で深々と礼をいった後、鞄のスマホを見た。誰がしたのか、消音の設定で青い点滅が光っていた。


「もしもし、オレ、ゴメン…」


「…一郎さん…」


 すすり泣きが聞こえた。


「……済まなかった。すぐ行く、病院なの?」


「…家にいるわ、これからお通やの準備」


 あっという間だったらしい。昨日の夕方、胸が痛い、と崩れるように横になり、義母が救急車を呼んだ時には呼吸が止まっていたとのこと。救急室で延命措置を聞かれたが、義母はあらかじめ遺言されていたのか、黙って首を横にふったという。

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