第19話

 あの役人風情が去れば、専務の社長の芽も出よう。

 だが、社内政治はこりごりだ。

 初老の男がグダグダと電話口でありもしない己の正当性を語る。


「これからもよろしく頼むよ」


 悲しきサラリーマンの宿命。

 麗美のいうとおり、去り時なのかもしれない。

 家族の姿が浮かぶとなんとなしに気持ちがラクになった。



「権力争いも終盤に入ったよ」


「あら、良かったじゃない。一郎さん、暗かったし」


「権力闘争なんて僕には向かないね。ああいうごつごつした人達と付き合うのも苦手だし」


「そうよ。私もあなたも、家庭向きなの」


 たいてい、女が正しい。聡明な麗美ならなおさらだろう。

 そう思うことで、平安が訪れる。


 しかし、これが…

 いや、関係ない。


「お坊さんが預かれないっていうのよ」

 

小皿を運ぶ麗美がため息ついでにもらした。


「なにを?」


「だから日記」


まる、なんて関係あるはずがない。

一郎はそれをもみ消した。


「まったく、私も飲もうかしら」


 ビールの後、機嫌よく冷酒が喉を通り過ぎたのに。

 互いに空気が変わるのをどこかで恐れていたのかもしれない。


「のみなよ、ホラ」


一郎はとっくりの日本酒を麗美に傾けた。


「大丈夫、大丈夫、昼間コンビニでワイン買ったから。結構人気なんだって」

 麗美は小瓶の赤ワインを冷蔵庫から取り出した。


「お寺で飼ってる犬が吠えてしょうがないっていうの。まさか関係ないでしょって粘ったんだけど、お坊さんがあれのせいだって譲らないの。それにカラスなんか来たことないのに、大量の集団が境内に集合してたり…」


 麗美はガラスのぐい飲みに入ったワインを口に含んだ。


「人に反応してるだけじゃないのか。寺なんだから出入りも多いだろうに」


「色々手をうって、日記を移動させたようだけど、犬はすぐ気づいて、やっぱり吠えるんだって。こんなおとなしい、犬が吠えるってよっぽどだ、とかいうのよ」


「そうか…」


「叱られるかもしれないけど…どこか遠くで預かってもらうとか…捨てちゃう?」

 捨てる?

 麗美にしてみれば…

 だが、母の遺言は…


「僕がどうにかする。とりあえず、会社のロッカーにでも置いとく」


「そうしてくれると助かる。会社なら犬もカラスもいないし…人間は吠えるかしら」


「吠える!特に専務」


 二人で思い切り、笑いをあげた。


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