第六章「峠越えの誓い」

 旅立ちの朝。

 稲穂谷は霧に包まれていた。草木の間をすり抜けるように、冷えた空気が静かに村を満たしていく。

 望は、まだ朝露のついた草道を踏みしめながら、薬草畑の前に立っていた。

 「……しばらく、世話できないけど。ちゃんと誰かが見てくれるから」

 彼女の言葉に、畑の草たちが、風に揺れて応える。葉の擦れる音が、どこか「行っておいで」と送り出しているように聞こえた。

 手には、小さな巾着が握られていた。

 村の子どもたちが描いた絵を縫い合わせて作ったもので、中には乾燥させた薬草と、タケルの母がくれたお守りが入っている。

 「望っ!」

 呼ぶ声に振り返ると、坂道の上に拓実の姿があった。相変わらず荷物は多すぎるし、背負い袋の横から何やら紐がはみ出ている。

 「……また整理しないで詰めたでしょう」

 「旅ってのは“詰め込むところ”から始まるんだよ。詰めて、あふれて、削って、それが人生ってもんさ」

 「詩人みたいに言わないでください」

 苦笑しつつ歩み寄ると、拓実は望の顔をまっすぐに見た。

 「緊張してる?」

 「……ちょっとだけ。でも、楽しみでもあります。きっと向こうには、今まで知らなかったものがたくさんあるんでしょうね」

 「未知は恐ろしい。でも、だからこそ面白い。君はその“声”が聞ける。俺はそれを記録する。悪くないコンビだろ?」

 望はふと、小さく首をかしげた。

 「……拓実さん、どうしてそんなにわたしを信じてくれるんですか? わたし、自分の“力”が全部正しいとは思ってません。間違えることだって……怖いです」

 拓実は少し黙って、それから自分の背から布包みを一つ取り出した。中から出てきたのは、彼の研究記録の写しだった。

 「これ、君に預ける。俺が今まで出会った“奇跡”たちの記録。最初はみんな信じられなかった。でも、ちゃんと見て聞いて記録すれば、それは“事実”になる」

 「……事実、ですか」

 「そう。“君が聞いた声”は、君の中で真実であればそれでいい。他人がどう言おうと、それをきちんと誰かと分かち合えるのなら、怖がることはない」

 そう言って、拓実は右手を差し出した。

 「じゃあ、ここでひとつ、契約を結ぼう。学者と助手じゃない、もっと対等な。……俺たちは、誰かの幸せのために旅をする。それだけが“誓い”だ」

 望は一瞬、迷いも躊躇もなく、その手を取った。

 「……はい。わたしも、そうします。誰かの幸せを作るために、この“力”を使います」

 霧の中で、二人の影が手を握る。その向こうに、翔也が荷馬車の前で苦笑して待っていた。

 「感動の別れは終わりましたか? 王都まで三日、峠越えの最初の夜は冷えますよ。動けるうちに動きましょう」

 「おお、現実的な助言。感動を台無しにするプロだな、翔也君」

 「自覚はあります。ですが旅というのは、荷物と足取りが肝心です」

 そうして三人は、稲穂谷をあとにした。

 背後では村の人々が見送る中、遠くで風鈴のような声が響いた。

 ──いってらっしゃい。きっと、戻ってきてね。

 それはたぶん、草たちの声か。器の声か。あるいは人々の心の声か。

 けれど、確かに望の胸には届いていた。

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