14

 そして今日。祐哉は玄関から上がる明日香の声を確かに聞いたはずだった。もう五分が過ぎたがふすまは開かない。階段を上がる音すらない。外では波と風が荒れ続け、勢いは衰えない。時折、大きな雨粒がまとまって窓ガラスを叩きつけ、ビチャっとした音が響く。雨が激しくなる前に雨戸を閉めればよかったと後悔した。

 ベッドの上で壁に寄りかかり、体育座りで両手を固く組んだ。明日香はこの町を出て戻らないと言った。祐哉にはどうしてもその言葉に現実味を見出せなかった。将来、自分が家を継いだとしても、明日香と結ばれる術が残されているような漠然とした希望を抱いていた。彼は彼女が将来、必ずこの町に戻ってくると信じていた。

 祐哉の中では、この町を愛することと、この町で生きることは同じことだった。そして、明日香がこの町を愛していることをよく知っていた。

 部屋の景色が一面、白に包まれた。空が割れるような雷鳴と低い地響き。乱れた呼吸を整える程度のわずかな時間を置いて、それは何度も繰り返した。激しい音の中に、押し殺した声が混じったような気がした。明日香の声だと祐哉にはわかった。神社の社殿でつないだ、あの手が急に熱くなった瞬間。浩介の話題を振った時の、今思えば不自然ともとれる態度。すぐにつながった。

 震える両手を強く握り締めると、その手をベッドに付いてゆっくりと立ち上がった。シーツは両手の汗を染み込み、色を変えた。

 彼女が町を離れることがどういうことなのか。祐哉は自らに問い返し続けた。足音を立てずに廊下へのふすまを開け、忍び足で浩介がいる部屋に近づいた。祐哉を退けるかのように、地鳴りのような波の音が耳をつく。

 浩介の部屋の前に立つと、一気にふすまを引き開けた。

 明日香の背中を上着ごと抱き締める両手。指の節々が固く盛り上がっている。どんなに強く引いても剥がせないと祐哉は思った。その手に包まれた明日香は顔を浩介の肩に預けきっていた。今までの自分は幼なじみであり、恋人ではあったが、心のより所としては程遠い存在だった。祐哉はそれを直感し、震えた。

 長い髪がしなり、明日香が振り向いた。揺れる髪がこの部屋に立ちこめるかすかな熱気を祐哉に伝えた。

 明日香の悲しげな視線が祐哉を突き刺した。

 穏やかな波の音。石段を掃く箒の音。蝉の声。薄暗い天井。つないで掲げた手の感触。もう戻らない。たった一歩だけ踏み込めば、彼女に触れられるのに、祐哉には永遠に許されないように思えた。 鼻の先がつんと痛んだ。浩介が明日香の陰から顔をのぞかせた。

「おい!」

 浩介の鋭い声を背に、祐哉は階段を駆け降り、雨の中に飛び出した。

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