9
二人は同じ社殿の天井を見上げていた。祐哉にとってはぼんやりと薄暗い中で漫然と木目が並ぶだけの光景だったが、明日香は、
個々の木目の模様にそれぞれ違いがあり、それらがこれからも全く動くことがないことを改めて確かめていた。
「さっき、忘れ物したとか言って部屋に戻って来た人いたら?」
「いたけど……なに?」
ぶっきらぼうな答え方だった。
「その人、大工さんだよ。今度うちを改築するんだって」
「なあんだ。そうだったんだー」
一転してほっとした口調に変わった。
「なんで? なんかあったの?」
「ううん、なんでもないよ」
「なんでなんで?」
「改築? 改築するの? 祐哉の家」
明日香は強引に話を反らした。
「うん。父ちゃんは跡継ぎを探してるっぽい」
「祐哉が継ぐの?」
わかんない、と祐哉は答えたままお互い無言となった。シャッシャッと箒で石段を掃く規則正しい音に、波の音が混じる。
明日香は祐哉が手をそっと握ってきたことに気づいた。あの男よりも柔らかい手。なんだか物足りないような気もしないではないが、明日香を気遣う優しさがその手には感じられた。祐哉の明日香への近づき方は、たとえ親しく長いつきあいがあるにしても、決してそれをより所にしたり甘えたりしない気遣いがあった。なのに、あの男はいとも簡単に近づいてきた。しかも、明日香は明日香で、彼の態度に身構える気が不思議と起こらなかった。
「あの大工さん、見覚えあるら?」
「ないよ」
明日香はつとめてつまらなそうに答えた。
「なんで?」
「なんでって、知らないもん!」
「むきになるなよ。昨日おれっちがチャリで二人乗りしてた時に、勉強しろーとか言って叫んで行っちゃったあの人だよ」
明日香は顔を赤くする。手に汗をかいているのが祐哉にばれてしまわないよう、つないでいた手をそっと離す。薄暗い社殿の中なら赤くなった顔も祐哉にはわからない。
「祐哉はやっぱり、ここに残るの?」
明日香の声は少し震えた。あの男と祐哉のどちらのせいなのかは自分でもわからない。
「新しい部屋が出来る時までに決めるよ」
「でも、祐哉のお父さんとお母さんが継ぎなさいって言ったら継がなきゃなんないんでしょ?」
「それはわかんないよ。兄ちゃんはそれで喧嘩して出てっちゃったし」
「だったら余計に祐哉を跡継ぎにって期待してるんじゃない?」
「でも、父ちゃんも母ちゃんもそんな継げ継げ言わないし……」
「どうやって継いでもらうか悩んでるんじゃない?」
祐哉は晴美の言葉を思い出した。
『お父さんから聞いてないの?』
『もう、お父さんちゃんと言わないんだから』
鷹利は何も言わなかった。言うとしたら、「継げ」と言うのだろうか。それ以外に何を言うのだろうか。「改築する」ことだけを言いたかったのだろうか。なぜ、大工達の前に自分を呼んだのだろうか。考えれば考えるほど、明日香の言う通りとしか思えなかった。
「そうかな……」
祐哉はわざと答えをはぐらかした。明日香は大きく深呼吸し、祐哉の手を握った。祐哉は優しく握り返した。
「跡を継がなかったら祐哉は何をしたいの?」
一緒に東京に行くという物語を作り上げることに、かすかな希望を見出しながら、明日香は次の薄氷を踏みしめた。繋いだ二人の手を、祐哉はゆっくりと持ち上げ、二人の頭上に掲げてから答えた。「うーん、俺は東京とか行く気起きないし……人多すぎて。ずっと前、おっきい地震あったじゃん? みんなぞろぞろ広い道をいっぱいになって家まで歩いてるの、あれ見たら行く気なくなるし、仕事とかは特にまだわかんないし……てゆーか、おれっち、遠距離じゃだめかな」
つないだ二人の手が少しずつ重くなるのを祐哉は感じた。
明日香は祐哉に気づかれないようにゆっくりと長いためいきをついた。そして、いつ祐哉がこの手を下ろすのだろうかと考えていた。祐哉が下ろそうとした時にもう一度力を込めてみるつもりだった。
しかし、つないだ手はなかなか降りなかった。祐哉は無言でその手を支え続けていた。
「九月になったら旅館の古い方を取り壊して、それからあの大工さん達、毎日うちに来るんだって。大変な時はうちに泊まってってもらったりするらしいよ」
明日香の手の平はさらに熱くなった。再び汗が吹き出てしまいそうだ。繋いだ手を明日香が下ろそうと力を込めると祐哉は抵抗した。明日香は笑いながらとっさに思い切り手を握り返した。そうすることで、手に汗をかいていることをごまかそうとした。
箒で石段を掃く音は次第に小さくなるが、祐哉の耳にはまだかすかに聞こえ続けていた。
祐哉の腕の力が次第に勝り、繋いでいた二人の手は崩れ落ちた。明日香が見上げる天井から木目が消えた。かすかに見えるのが祐哉の両目であることに明日香が気づいたのは、お互いの鼻先が触れたからだった。
「やめてよ」
押し殺した声だが、明日香の口調は鋭かった。
「なんで」
急に焦点が緩んだような祐哉のうつろな目を見ると、明日香の目は涙で滲んだ。
「なんでだと思う?」
とっさに反らそうとした祐哉の目を明日香は逃がさなかった。祐哉が何も言葉を出せないままでいると、明日香は小さく声を震わせた。
「私、恐いよ。これから先、一体どうなっちゃうんだろうって毎日考えて、不安でたまらなくて……」
「何も心配いらないって……」
「だから、不安なのは祐哉のせいなんだってば!」
明日香の言葉をかぶせるように咄嗟に出た祐哉の言葉を、明日香はさらに押し返した。
「俺のこと、嫌いになったの?」
「何言ってんの?」
明日香は呆れて祐哉の肩を押し返した。
「祐哉はどうするのこれから? 何度も言ったじゃん。ちゃんと決めてよ。私、どう心の準備したらいいかわかんないよ」
「だから、ずっと考えてるって……」
「本当に?」 すがるような明日香の視線だった。口先だけじゃなくて、真剣に考えなければと自分に言い聞かせるようにして、祐哉は無言でゆっくりうなずいた。
「ちゃんと決めてね……そして、私に話して。話してくれたら……」
祐哉は明日香の視線から恥じらいを感じ取った。幼い頃からの長いつきあいの中でも、それは特に新鮮な表情だった。
祐哉はもう一度ゆっくりうなずいた。明日香は祐哉を抱き寄せた。
息を弾ませる小さな声が、石段の下の方から今日も二人の耳に聞こえてきた。
「祐哉、もう行くよっ」
気合いを入れた声を上げて明日香は飛び起き、石段を駆け降りて行った。祐哉も明日香の後を追った。
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