第2話「柴犬」7
夕方になって、飼い主が来た。飼い主が玄関に現れるかどうかのタイミングで、それまで床に伏せていたビワが立ち上がり、猛スピードで玄関に走っていく。フローリングの床に当たる爪の音がけなげだ。ビワは尾をちぎれんばかりに振って、飼い主にすがった。もう雨は上がっている。
飼い主はアズサの父親と同年代の男性だった。
「どうもすみません。ビワがいないの、今朝、気づいたんですよ。でも、この雨でしょ? 予約のお客さんもいたんで、探せなくて、心配してたんです。本当にありがとうございます」
大家が、飼い主も部屋に上げる。ビワはその後をくっついて、アズサのいるダイニングキッチンまで戻る。飼い主がアズサに挨拶する。
「ええと、カワズル、さん。どうも今日はありがとうございます。なにか、有休まで取ってくださって、本当にありがとうございます。ビワもいい人に見つけてもらって本当によかったです。あの、これ、つまらないものですが」
そういうと、飼い主は、アズサに手土産を渡した。アズサのよく行くスーパーで、アズサも見かけたことがある季節のゼリーの詰め合わせだった。アズサは一応、
「いえ、そんな、こんなことしていただかなくても…」
と、お礼のゼリーの詰め合わせを辞退してみるが、結局もらうことになった。季節のゼリーの詰め合わせは、アズサがしばらく前に、小説家のカツベアヤミからもらったものと同じものだった。アヤミは、アズサとは仕事で知り合ったが、今では姉妹のように仲が良い。アズサが以前、通勤途中の道路で転んでアキレス腱を切ってしまったときに、アヤミは、実家療養中のアズサのところにお見舞いにこれと同じものを持ってきたことがあった。アズサはそれを思い出して、少しだけ感慨にふける。
飼い主が話す。
「いや、本当に、こんなにやさしいカワズルさんのところに行ってお座りしていたって、この子、なんかきっと、やさしい人が分かるんですね。カワズルさんの家は、コーポわかくさの二階なんでしょ? なんで、うちの子は、わざわざ二階のカワズルさんのお宅に行ったんでしょうね」
アズサもこれは分からない。いくら自分が琵琶湖のほとり出身だからと言って、犬のビワが自分の名前と同じ「ビワ」湖出身だからアズサの部屋の前に来た、というわけでもないだろう。そうだ、そもそも、この柴犬の名前は、なぜ「ビワ」なのか? 体の色が熟したビワに似ているからなのか。アズサは飼い主に聞いてみた。
「あの、ビワちゃんて、なんでビワゆう名前にしはったんですか?」
飼い主が答える。
「はい、この子、生まれが琵琶湖のそばなんですよ。ええと、なんだっけ、…あ、石山っていうところのブリーダーさんで生まれた子なんです。で、琵琶湖から来たから、ビワって付けました」
アズサがびっくりする。
「え、え、そうなんですか? ワタシ、出身、大津の石山です…!」
逆に飼い主の方がびっくりして言う。
「えーっ、そうなんですか? 同じ石山? あの、えーと、ケンネル瀬田、というペット店で生まれたんですが」
アズサがさらに、ちょっと息が止まりそうに驚いていう。
「ケンネル瀬田、知ってます。ウチの実家の近所です。よくその前通ります…」
あまりの奇遇に、アズサはちょっと脱力したような気さえした。実家のそばの、よく前を通るペット店で生まれた柴犬が、自分のアパートの前にいた。ビワは、ひょっとして、それが分かって、アズサの部屋の前に来たのだろうか?
「うーん、本当ですか。びっくりしました。なにか、カワズルさんの匂いで分かったんですかね。同じ琵琶湖の匂い?」
アズサがちょっと恐縮して言う。
「あ、いや、琵琶湖て、今はちょっとはようなってきましたけど、前は夏とか結構くさいときあったんです。水草がぶわっと生えてしもて、それが腐って、うーん、でも、犬はそれが嫌な臭いかどうかわからんし、ええ匂いって思ってるかもしれませんね」
「あ、そうなんですか。そういう匂いが好きなんですかね」
「はい、ワタシも、そういうところで育ったので、ひょっとすると、その匂いがワタシに付いていて、ビワちゃんがそれを感じたのかも…」
「いやぁ、それはないでしょう。だって、カワズルさん、もうこちらに来て何年も経つんでしょう?」
アズサは、高校までは大津で暮らしていたが、卒業後は山梨県の大学に進み、現在の勤務先は、東京西部の町である。大津から関東に移って、もう七、八年になろうか。
「はい、ワタシも、匂いなんかもうとっくに消えているて思いますが、ワンちゃんって、嗅覚はすごいていうし…」
「そうですね。不思議ですね」
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