ミナミ

 下り方面に向かう各駅列車のボックス席をふたりじめして、あたしたちは十一月になっても夏休みの続きをする。後ろに流れていく田んぼだらけの風景を見ていると、正面に座ったミナミが口を開いた。


「誰かさんが誰かさんをライ麦畑でつかまえたら、ってね。ここは麦畑じゃないけど」


 有名なアメリカ文学の一節を引用して微笑む彼女の身体はとても小さい。あたしの身長が160cmだとすると、たぶん十センチ以上低い。腰まで伸ばした髪は手入れを怠っているからぼさぼさで、だけどとんでもなく顔がきれいだから、ぼさぼさの髪ですら妙にさまになっている。


 この、小学生みたいでその実同い年の可愛らしい女の子があたしの旅の道連れ、ミナミだ。


「あんた、その作品好きだよね、本当に」

「きみが薦めてくれたんだろう。ほとんど本を読まないぼくだけど、これだけは特別なんだ」


 ミナミ、イントネーションは東西南北の南と一緒。いつまでたっても先生たちはよくいるミナミさんのイントネーションで呼んでたっけ。


 まぁ、あたしたちはもう高校に行っていないから、先生がミナミの名前を呼ぶたびに「まちがってるね」って顔を見合わせてくすくす笑うことはきっと二度とないんだろうけど。


「そればっかり読んでると、犯罪者予備軍扱いされるわよ」

「いいよ、どうせもう世間にとっては犯罪者みたいなものだろ、ぼくたち」

「たしかに、それはそうかもね」


 教室でみんなにばれないように笑いあう代わりに、今あたしたちは誰の目をはばかることもなく笑いあっている。平日昼間のがらがらの車内に、幸せが満ちているみたいだ。


 ミナミはちょっと笑って、またすぐ車窓を流れる緑の風景を興味深そうに眺め出した。ほとんど変わり映えしない風景が続いて飽きないのかと思うけど、飽きないからミナミはミナミなのだ。ミナミにはきっと他の人とは全然違う色の世界が見えているのだと思う。その証拠に、ミナミはちょっと普通じゃない絵を描く。


「……ねぇ」

「なんだい?」

「……ううん、やっぱいい」

「なんだい」


 二回目の「なんだい」にあきれているような印象を含ませながら、ミナミはあたしに構わず外の世界に視線を投げかけた。


 やっぱり、言えるわけがなかった。もう一度絵を描く気にならないのか、なんて。

 あたしのせいでミナミは絵を描けなくなったも同然なのに。


「楽しい?」

 ぐらいついた精神の均衡を元に戻すために、あたしは答えのわかり切った問いを口にする。

「きみといれば、どこだって」

 そして、予想ぴったりの答えを聞くことで小賢しくも安心するちっぽけな人間があたしだった。



 この旅にもともと目的地なんてない。

 ただ、二人でどこまでも行けるところまで行ってみようかと思い立って、どこに向かっているかもわからない電車に乗ってみた。


 だから、ミナミが「ここが目的地なのかもしれない」と言って名前も聞いたことない駅で降りたときには少しついていけないような思いがした。


 あたしなんかがミナミについていけるなんて思うのが間違いなんだろうけど、ミナミが選んだ場所は他の駅と同じくらいに寂れている、ありふれた田舎のようにしか思えなかったから。


「てっきり終着駅まで行くのかと思ってた」

「それもよかったけどね。でも、ここはひときわ黄金色に見えたんだ」

「もしかしてミナミは、ライ麦畑を探しているの?」

「きっと、そうなんだろうね。きみにはぜんぶわかっちゃうんだ」


 わからない、あんたのことなんて凡人のあたしにはわかんないよ、そう叫んでやりたかった。


「……そうね。ぜんぶとは言わないけど、きっと他の誰よりもあんたのことわかってる」

 本音は押し込めて、理解者のふりをすることにした。

「やっぱり、そうなんだ」

 無邪気に笑うミナミを見ているときだけはくだらない優越感に浸ることができた。



 本当のところ、最初あたしはミナミが嫌いだった。


 あたしはずっと自分には絵しかないと思って生きてきたし、あたしほど絵に人生を捧げている人間なんていないという自負もあった。将来は絵で食べていくと信じて疑わなかった。


 だけどあたしは本物を見てしまった。絵で食べていけるのはミナミみたいな人間なんだって知ってしまった。


 ミナミの絵を見た途端、自分の全てを否定されたような気がした。あたしの十七年間を、ミナミは一瞬にして軽々と飛び越えていってしまったのだ。


 たまらなくむかついて、毎晩毎晩死ねばいいのにと呪って、呪えば呪うほど不思議なくらいにミナミが好きになっていった。


 多分、自分にない才能を持っているミナミを手に入れることで、あたし自身の価値を取り戻したかったんだと思う。ミナミをそばに置くことで、自分はミナミよりも上であると思い込みたかった。きれいで、すごい才能があって、ずっと穢れを知らないミナミに愛されることで、自分自身もそんな存在だと錯覚したかった。


「ここは淀んだ匂いがするねぇ、磯臭いなぁ」

 寂れた港町を踊るようなステップで歩くミナミの背中を見ながら、ここまで来てもそんな錯覚できないな、としみじみ思う。天と地がひっくり返ったってあたしはミナミにはなれない。誰だって誰かになることはできないけれど、ミナミには特にそう思わせる力があった。それはいわゆる魅力という力で、あたしは未だに彼女の魅力に打ちひしがれ、恋焦がれ続けている。


「ライ麦畑とは正反対の場所に来ちゃったみたいね」

「たしかに、一見するとそう見えるね」

「一見すると、ね」


 ミナミがこう前置きするときは、たいてい面白い話が始まる合図だ。この瞬間いつも、あたしは子供に戻ったかのようにわくわくして、それと同時に人とは違うミナミの感性に激しく嫉妬する。


「空を見てごらん」


 ミナミは白魚のような指で天を指した。日が傾きかけていて、地平線に近づくにつれてだんだんオレンジ色のグラデーションがかかりつつある、晴れた秋の空だ。


「太陽がさ、光っているよね」

「ええ」

「そしてほら、海を見てごらん」


 立ち並ぶ家々や商店の隙間から遠く見える海は、太陽に照らされて光り輝いていた。


「黄金色が広がっていて、まるでライ麦畑みたいだろう」

「……ええ、そうね」


 ミナミは世界の捉え方がうまい。ミナミの目を通してみれば、きっとこの世界にあるすべてのものがきれいに見えるのだろう。それがなにより妬ましい。ミナミはたとえ絵が描けなくたって幸せに生きていけるんだろうと思わせられるから。あたしは絵が描けなかったら絶対幸せになれないのに。


「……ライ麦畑に行きたい」

 あさましくて、惨めな自分に堪えきれなくなって、思わずあたしはそう呟いていた。

「おや、きみも同じ気持ちだったのかい?」

「……うん」


 本当は同じじゃない。ミナミはきっと純粋にどこかに行きたいと思っているけど、あたしはただここに存在したくなくて、だけど消える勇気もないから、かわりにどこか別の居場所を探しているだけなのだ。


「それじゃあ、行こうか」

 それでも、ミナミに手を差し伸べられると、素直に喜んで、手を握ってしまう自分がいる。

 ミナミの温度の高いてのひらを握ると、愛しい気持ちがじんわりとあたしの中に広がっていった。



 田舎の海は街並みと同じくらい寂れていて、あたしたち以外に誰も人がいなかった。


 砂浜に打ち上げられたビール瓶の破片を拾って、きれいだねって二人で笑って、空に透かしていると、突然ミナミが肩を震わせて泣き出した。


「きみみたいだ」

 ミナミは何度もそう繰り返して、半透明の欠片を眺めては泣いた。


 ミナミはこうしていきなり泣き出すことがよくある。そのタイミングは常人じゃ理解しがたいところがあって、ゆえにミナミはいつも孤独だった。孤高の天才と言うとかっこいいけれど、彼女自身は人並みに他者に飢えていて、ずっと友人を欲していた。だから、ちょっと声をかけるだけですぐにあたしのことを好きになってくれた。


「ああ、このガラスは、きみみたいだ。きみみたいに繊細で、美しい」

「あたし、あんたが思ってるほどきれいじゃないよ」

「でも、きれいなんだから仕方ないだろう」


 きっとミナミは、あたしがどれだけ醜い感情を抱いているのかを吐露したところで、全部美しいと言ってしまうのだろう。そんな確信が脳裏をよぎって、ひっそりと自嘲する。ミナミに愛されているっていう自信だけは何の疑いもなく持てるんだ、あたしって。


「ミナミの方がきれいだよ」

 茶化すような口調で本心を言うと、ミナミは涙を流しながらも、「陳腐なことを言うのはやめてくれ」とリスみたいに頬を膨らませた。小動物じみていてあまりにも可愛かったから、つんつんとつついてやると、「あー、やったなー!」とむきになってミナミもあたしの頬をつつき返してきて、お返しに今度は頬をぐいぐい引っ張るとミナミは耳の裏(あたしの弱いところだ)をくすぐってきて、「ちょっ、まって、たんま!」「やだね、待ってなんかやらないよー」「ひゃっ、ほんとにやめてってば、もう!」なんて会話をしているうちに気づけばあたしはミナミを砂浜の上に押し倒していた。


「おっと、マウントポジションをとられてしまったね」

 ミナミは一切嫌がるそぶりも見せず、笑いながらいつもみたいに目を閉じた。

「んっ……」


 あたしはミナミに覆いかぶさるようにして、彼女の小さな薄い唇に自分の唇を重ね合わせた。温かく、柔らかい感触が伝わってくる。子供体温なのか、ミナミは全身が温かい。


 潮風で冷えた身体を温めるように、ん、ふ、んぅと時折声を漏らしながら、深く、深く、唇を重ね合わせ、指の一本一本を組ませて、脚を絡ませ合う。はじめはじゃれつくようだったけど、次第にその行為は熱を帯びてきて、ああこれ以上はまずいなと思ったところであたしはそっと身体を起こし、ミナミから離れた。


「……どうしてやめてしまうんだい」

「あたしだけのミナミが誰かに見られたらいやだもん」

「ああ、そういえばここは外だったね。きみしか見えていなかったからついつい忘れていたよ」

「……ほんと、あんたもあたしも、こういうところ直してかなきゃね」


 あたしたちが学校に行かなくなった直接の原因は、校舎裏でキスしているところをクラスメイトに見られたからだった。それ以前からお互いクラスになじめずにいたけれど、あたしたちが付き合ってるっていう噂が広がった時点でとうとう限界がきて、夏休みが来る前に二人とも不登校になった。


「なおす、か。きみの言い方は、世間に迎合することが前提にあるよね」

「ある程度はそうしないと生きていけないもの、少なくともあたしは」


 ミナミはきっと世間に迎合しなくても、いい機会に恵まれれば周囲に受け入れられて、愛される人間だ。

 それがわかっていてなおミナミを手放せないあたしは本当に最低なんだけど。


「ねえ、きみ」

 ずっと寝っ転がっていたミナミはけだるそうに立ち上がって、髪に絡みついた砂をぬぐうこともせず、大真面目な顔でこっちを見てくる。

「そこまでして、生きたいって思う?」

「……」


 その問いは、お互いに心のどこかでずっと抱いていた問いで、だけど考え始めたら歯止めが効かなくなるということもわかっていたからこそ今まで口に出してこなかった言葉だった。


「答えられないのかい?」

「だって、本音を言ってしまったら、全部終わりでしょう?」

「そうだね……」


 どこか上の空といった口調で言って、ミナミは突然波打ち際に向かって駆け出した。


「ミナミ!」


 きらきら光る海上のライ麦畑に吸い込まれようとしている彼女の背中がいつも以上に小さく見えて、たまらず追いかけると、ミナミは海と浜の境目みたいなところで立ち止まって、あたしの方を振り返った。


「ねえ、一緒に死のうよ」


 そして、何のためらいもなく海に足を踏み入れた。


「バカ!」


 あたしはそんなミナミを引き留めるべく、大慌てでミナミの後を追って海に入った。冷たい海水に体温を奪われていくのを感じながら、足がつくうちにと急いでミナミに追いつこうとする。水の中で必死に足を動かすたびに、パシャパシャと飛沫が飛び散って光り輝く。


 幸いにもミナミの足取りはあたしより重くて、すぐにあたしはミナミの肩を捉えることができた。


「……止めるんだね、きみは」

 ミナミは半分残念そうな、だけど半分わかりきっていたような顔でこちらを振り向く。

「当たり前でしょ。一緒に死のうだなんて、ミナミともあろうものが、安易すぎる」

「安易だけど、ロマンチックだろう?」

「いいえ、興醒めよ」

「きみはいつだって醒めてるくせに」

「……」


 本質を突く言葉に、何も言えなくなる。あたしは結局ミナミみたいに酔えない。いっときの感情に任せることができない。今の逃避行にだって、なんだかんだでいつか現実に戻れてしまうのだろうなという予感を抱き続けている。


 ミナミは違う。ミナミは本気で今だけを一生懸命に生きられる。


 ああ、ほんとにあたしたちって違うんだな。どれだけキスしたって、肌を重ねたって、どうしても理解できない領域が二人の間に横たわっている。そんな使い古された言い回しで表現できてしまうほど、あたしたちは完璧な他人同士なのだ。


「帰ろう、ミナミ」

 頭の中でぐちゃぐちゃと思考を展開する前に、あたしは自然とそう言っていた。


「あんたはさ、生きるべきだよ。生きるべきだし、みんなあんたに生きてほしいって願ってる。ううん、たとえ今はそうじゃないとしても、いずれみんなそうなるよ」


「そんなこと、どこにも確証が……」


「ある。あるよ。だって、あんたは本物の天才で、顔も心もきれいで、この世界にとって特別な何かで、きっとあんたから心を開きさえすれば誰だってあんたのこと好きになる。そうじゃなくてもいつか誰かがあんたのことを見出す。そうしたらあんたはいずれたくさんの人に囲まれて、愛されて、手の届かないところに行って、あたしだけのミナミじゃなくなって……ううん、違う、あたしが、あたしさえいなければミナミはもうとっくにそうなってたんだ、そう、だから、結局」


 結局、本当は、


「本当に死ぬべきなのは、あたしだけじゃん……」


 あたしは死にたいんだ。


 才能がなくて、性格悪くて、他人が嫌いで、周りになじめなくて、そのくせいつ何時も自分を客観視する呪いのような癖だけはついているから自分を誤魔化して生きることもできなくて、劣等感まみれで、ミナミを独占することだけで自分の価値を保っていて、だけどそんなこと正しくないって、あたしのしていることは隅から隅まで醜いってわかっているから、命を絶つことで全部なかったことにしてしまいたいんだ。


 この希死念慮は、刃物を持った誰かにがけっぷちまで追い詰められて、崖から飛び降りるしかないような差し迫ったものではなく、楽な解決方法としての死を常に頭の中で考えてしまう、あたしの怠惰と無気力の産物だった。


「……ぼくはきみに生きていてほしいよ」

 ミナミは夕凪のような瞳で、かっこつけることも、うろたえることもなく、ただ静かにそう言った。


「知ってる。あんたからそう思われるように仕向けたのはあたしだから」


 あたしは自分で自分を認められるようになるため、ミナミを利用しているに過ぎない。なにもかも破れかぶれになったあたしは、もはや取り繕うことも忘れていた。


 そんなあたしを見て、ミナミはぴくりと眉を動かして一瞬顔をしかめた後、ため息混じりに言った。


「あのね、ぼくの心はそんなに単純じゃないよ。そもそもきみごときがどうこうできるほど人の心はわかりやすい構造をしていない」

「でも、あたしがあんたから好かれるように振舞ったのも、その結果あんたが今ここにいるのも事実よ」

「だとしたら、ぼくを夢中にさせた責任を取ってよ。一緒に死んでくれないなら、一人で勝手に死のうとするな」


 淡々としているように聞こえるミナミの声に、ほんの少し、苛立ちが滲んでいた。それは他の人が聞いても分からない程度のものでしかないけど、あたしにだけはわかる。その事実が、ミナミがあたしに夢中だという言葉が、一緒に死のうとまでしてくれたついさっきの記憶が、ミナミの全てが、毛羽立ったあたしの心を丁寧に撫でていく。


 あたしの運命が狂ったのはミナミのせいだけど、同時にあたしを癒してくれるのはミナミだけだ。あたしがここまで愛おしいと思える存在は、ミナミだけなんだ。


「ほんと、そうだよね」


 何もかもなかったことにすることなんてできない。

 なかったことにするには、あたしはちょっとミナミを好きになりすぎた。

 そして、ミナミもまたあたしのことを好きになりすぎてくれていると信じられる。


 ミナミとあたしは全然違う他人同士だけど、好き合ってしまったからには、そう簡単に手を離すことなんてできない。


「はは……あたし、ほんとダサい。惨め。どうしようもない」


 才能不足とか友達の少なさとか以上に、目の前にいる大切な存在から目をそらして逃げてしまおうとする根性のなさが、かっこ悪い。情けない自分を変えようとしないのは、もっとかっこ悪い。


「ね、ミナミ」

「なんだい」

「あたし、また絵、描くね」

「ああ。楽しみにしているよ」


 だからミナミもまた描いてよ、とまでは言わない。それはやっぱり、ミナミが決めるべきことだと思うから。


 先のことはまだわからない。ミナミはまた絵を描くのか、とか、いつこの旅が終わるのか、とか、あたしたちはまた高校に戻るのか、とか。


 だけどとりあえず今は……


「空が暗くなってきたね」

「うん……ああ、さむ。このままじゃ風邪ひくわ」

「うん、寒い……とりあえず、ここから出ようか」


 二人で風に晒されて、寒いねって言い合って、固く手を繋いで、一緒に浜辺を目指した。

 

 

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