第八話 佐川壮亮『作者は自分の経験しか書けませんか?』

「書いている小説がうまくいかないんだね」

「あぁ、意外とね。難しいもんだよ」

「当然だよ。難しいことをやっているんだから。私はあなたの味方だよ。応援してる。頼って欲しいことがあったら、なんでも言ってね」


 そうやって、俺は由衣に励ましてもらう。『物語』に書いた『現実』の中で、彼女はどこまでも献身的なヒロインだ。『XXX』に蔓延る創作論を眺めていた時、『ご都合主義はやめましょう。読者は冷めてしまいます』と書かれていた。都合が良くて、どこが悪い。俺の指先ひとつで都合よく動いてくれるヒロインがいる。いる、と分かっているのに、動かさないでいられる神経が俺には分からない。『物語』は、自分の都合だけで動くものじゃないのか。ドラえもんの四次元ポケットが目の前にあるのに、使わないでいられる奴がいるのか。あのポケットは欲しい。でも俺は別にドラえもんは要らない。ドラえもんは俺の都合では動いてくれないからだ。


 俺と由衣は隣に並んで、夜道を歩いていた。バイトからの帰り道だ。俺と由衣は店の締め作業を任されているので、帰る時間は必然的に同じになる。だけどいつもは店の前で別れている。帰る方向も反対だからだ。


 俺は缶チューハイとおつまみが大量に入ったコンビニのレジ袋を抱えている。「良かったら、一緒に飲まない?」と由衣から誘われたのだ。そろそろそういう関係になろう、というタイミングを選んだのも、俺だ。展開が分かっていても、さすがに俺の心も緊張している。


 夜気は冷たく、小雪が舞っている。クリスマスも近付いてきて、今年度、初めて見る雪だ。由衣と出会った頃が夏だったことを考えれば、もう四ヶ月くらいの月日が経っている。時間の流れる速さに怖くなる。彼女と会ったのは昨日のことのようだ。……いや本当に昨日だったんじゃないか。


 ……ま、まぁいいや。いまはそんなことはどうでもいい。


「どうしたの、佐川くん、変な顔して」

「あっ、えっと」

 俺は思わず狼狽えてしまう。言葉がうまく出てこない。そして気付いた。あれっ、俺、こんなシーン書いたっけ。俺と由衣のやり取りに関しては、俺の『物語』通りに進んでいたはずなのに。どういうことだ。……でも、このくらいはたいしたことじゃないか。何事にも例外はある。


「面白い顔してるよ」

 と由衣がほほ笑む。


 由衣の住むマンションに着く。

 部屋に入る時に、「汚い部屋だけど」と由衣が照れたようにほほ笑んだ。大丈夫。これは俺の描いた『由衣』だ。やっぱりさっきのは、ちょっとしたバグみたいなもので、あまり気にするようなものではない。『汚い部屋』と由衣は表現したが、別に整った綺麗な部屋だ。俺だって初めて入る女の子の部屋が、ゴミ屋敷みたいだったら嫌だ。服が脱ぎっぱなしになっている程度なら何も思わないが、生ごみが放置されて虫が大量発生、とか最悪だ。初めてじゃなくても嫌だ。


 隣り合って座り、机の上にチューハイの缶を置き、おつまみを広げる。

 俺と由衣の距離は近い。俺がそうなるように仕向けたとしても、やはりドキドキはする。


 飲みながら話しているうちに、彼女が突然、

「ねぇ、佐川くんって付き合ってる子いるの?」

 と言った。


「いないよ。知ってるだろ」

「水野さんとか? 結構、気がありそうな感じだけど」

「ないない。絶対にない」

「ふーん、まぁ、ならいいけど」

 俺は心の中で、もう一度、言う。絶対にない。話を繋げるために、俺は敢えて『水野』を作中に登場させたが、彼女が本当に俺に気がある可能性などゼロに等しい。もちろんあったらそれはそれで嬉しいが、たぶん俺に持っている感情は無だ。嫌悪感よりも下の感情しか抱いていないだろう。


 由衣が俺にもたれかかってくる。

「じゃあ、私じゃ駄目かな?」顔は赤く、その瞳は潤んでいる。「ねぇ、今日……」

 と由衣がそこまで言ったところで、ばちんと切断されるように、俺は自分の部屋に戻っている。近くに由衣の姿はない。あぁやっぱりか、と俺は頭を抱える。この感覚は初めてではない。いままでにも何度かあった。


 なんでこうなったか、というと、俺が物語のその続きを書いていないからだ。するとこんなふうに突然、描かれていない『現実』に引き戻される。分かってはいたが、なんとかなる、なんて考えていた俺が浅はかだった。


 俺は童貞だ。性描写が書けない。これは言い訳だろうか。俺もそう思っていた。小説なんて結局は嘘なんだから、想像力でどうとでもなるだろう、と。だけどいくら頭を振り絞っても、何も書けない。分かっている。俺は怖いのだ。そこの部分を、「嘘だ!」と糾弾されてしまうことが。もう投稿サイトの更新は止まったままだ。それに『カケヨメ』は明確な性描写を入れることを禁止している。だからこの部分を誰かに見せることはない。なのに、俺は怯えている。何に? ……あぁ、そうだ。きっと俺は、俺自身の心から責められることが怖いのだ。


 いっそ、フィクション性を強調した過剰な描写にしようとも考えた。それならある程度、『現実』を知らなくても書けるからだ。だけどそれはそれで、俺の安いプライドが許さなかった。


 やっぱりプラトニックなものにしよう。

 愛ってのは、もっと崇高なものだろ。なぁそうだろ。そうだ、って言ってくれよ。

 ……これなら、尾根先輩に風俗に連れていってもらえば良かったな。そうすれば、多少は理解できるものもあったかもしれない。


 ため息をついた時、突然、そばに置いてあったスマホが鳴り響いた。意外な名前に、俺は首を傾げてしまった。


「もしもし。どうした小林?」

 小林と話すのは同窓会以来だ。同窓会で久し振りに会った時に、また機会があったら遊びにでもいかないか、なんて話はしたが、本当に連絡が来るとは思っていなかった。でも口調は沈んでいて、遊びに誘うというテンションではない。


『あぁ、ごめん。急に連絡して。言うかどうか迷ったんだが、実は神野のことなんだけど……』

 神野の話を最後に聞いたのは、同窓会で小林からだ。行方不明になった、と。あの高校時代の憧れが、変わらず俺の創作の原動力になっている。たまに思う時がある。俺は小説を書きたいんじゃなくて、『俺』と『神野』が結ばれていた世界をストーリーにしたくて、その手段が小説しか見つからないんじゃないか、と。『由衣』にスライドしながらも、やっぱり俺はつねに、そこに『神野』の影を見ている。


「神野って、もしかして戻ってきたのか。そっちに」

 そんなことはありえない、と分かっていながら、俺は小林に聞く。


『それは正解でもあるし、間違いかもしれない』

「なんだよ、それ」

 焦れた口調で、俺は小林を急かす。


『確かに神野は戻ってきた。だけど生きてはいなかった。遺体になって戻ってきたそうだ』

 なぜだろう。とても悲しい話をしているはずなのに、小林の口調は無感情だ。途中で怖くなる。俺がしゃべっているのは、本当に小林なのだろうか。ふいに謎めいた顔の輪郭も分からないシルエットが電話を繋ぐ線の先にいるようなイメージが浮かぶ。


「な、なんで」

 俺の声は震えている。分かりやすいほどに。

『なんで、って。お前のほうが詳しいんじゃないか』

「そんなわけないだろ。俺はいま初めて知ったんだぞ。俺が知らないから、お前は俺に電話を掛けてきたんだろ。変なこと、言うなよ」

『あぁ、それもそうか』会話が噛み合わない。『神野は県内のR山の山中に埋められていたらしい。お前も知ってるだろ。俺たちの高校からそんなにも離れていない場所にある。そう、埋められていたらしいんだ……。誰が埋めたんだろう。死体が勝手に自分を埋めることはできない、と思うんだ。当たり前だけど。誰かが埋めたとしか。別に友達を疑いたいわけじゃないんだ。でもどうしても疑わずにはいられない。なぁ、佐川』

「お、俺は」

 俺は何を口走ろうとしているんだろう。そんなわけがない。そんなわけが――。


『神野を殺したの、お前だろう。素直に認めろよ』

 ――そこで俺は目覚める。


 慌てて俺はスマホの着信履歴を確認する。小林から連絡が来た様子はない。なんだ、夢か。これが『物語』ならば失笑ものの、下らないオチだ。ただ俺は心底、ほっとしている。物語の登場人物にとっては、夢オチは嬉しい結末なのかもしれない。


 だけど……、

 俺はどこから夢を見ていたのだろうか?

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