再点
佐藤佑樹
再点1
離れてやっと気づくこともある。あの町は空が低い。気が塞ぐ。息が詰まる。海からの風が吹き溜まる。いつだって雲に覆われてあり、すり鉢の底のような盆地には市井が蠢く。
二十一の頃だ。スーツだけは持っていた。
あの町での俺の持ち物だなんてそれくらいのものだった。
車はおろか免許も無い。居場所も無い。学位も無い。
無い無い尽くしだ。
友の数だけは多かったが、みな若くして逝った。
職も無い。
ハローワーク通いが日課だった。自転車で旧道を行けば一時間ほどで辿り着く。職安のかび臭いカウンターの向こうから、アイロンもかけていないような出立ちのババアが「ああ、この仕事はですねえ、賞与も無い、退職金も無い。寂しいですねえ」と、口をもごもご撒き散らす。
うるせえよババア。
じゃあ何か。大学を中退したような俺が月給十五以上の職に就けるのかって。就かせてみろや。そんなんあるなら教えてみやがれ。
リーマンショック後の時節が悪かったのだろうか。若者より鹿の方が数の多い癖にして治安は良くなかった。連続不審火があった。役場の出張所には盗撮のカメラが仕掛けられてあった。平成末期頃にまで暴走族がたむろしていた。
この町を出るには、逝くか、出来婚かだ。暴論と思うか? 新卒カードが無ければそんなものだ。田舎なんだよ。高卒は隣町の工業団地に勤め出るが、大卒者からは見向きもされない。中心地まで電車で三十分だぞ。ああ、田舎だからな。最寄駅まで徒歩で二時間というのも忘れず換算しておくように。じゃあ、俺は? 蒙昧にも中途退学をかましちまったようなはみ出し者は? 峠を越えた先の店でバイトでもしなさい。そうして金を貯めて免許を取りなさい。話はそれからだ。そうで無くしてどう稼ぐ。中退なんかしたてめえが悪い。だろう? 仕方が無いね。悪いのは全部自分だ。
この頃には同年代がころころと死んでいった。いちおう奴らの尊厳のため明言しておくが、一人だって自死は無い。まるで祟りだ。死止観音が町の名物だってのに俺らへ加護は与えられない。毎週のように誰かの葬儀へ行くものだからリクルートのスーツに香の匂いが染み付きやがった。クリーニングへ出す金なんて持っていない。やれ香典だなんだと金は財布に留まらない。
町を出て十五年は経とうというに、天野の葬儀のことが忘れられずある。
天野は高校時代の悪友だった。思えば奴と連んだことが転落人生の始まりだったのかも知れない。アーケードゲームもボウリングも奴との付き合いの中で知った。
学校をフケて延々と自転車を漕ぎ、並走する天野の顔越しに見える田んぼの色は四季とともに姿を変えた。
水が張れば水面は白くきらきらと抜けた。幼穂の緑の中にあっては、天野の顔はしかめ面に歪んでいる。この時期の田は青臭くうんこの匂いがした。はぜ干しの季節の中では、天野は低い空の曇り模様を映しながら俺に視線をくれていた。
天野はエロ皇帝と呼ばれていた。耽美的な小説なんぞを学校で読み耽っていたからだ。
「天野くんどんなの読んでるの」
クラスの女子がひょいと本を取り上げ見やり、赤面して小さく悲鳴を上げた。
「ガキかよ」
天野は小説を取り返して吐き捨てた。その時、席の後ろから覗き見えたページにはこうあった。
「骨の浮き出る手の甲の側でもって、男は女の内腿を撫でる。女は艶やかにその身をくゆらせ、その肢体は青田風に踊る若稲のごとくしなやかだった。」
この本の作者は都会育ちのボンボンなのじゃなかろうか。バスの車窓から田を眺めるくらいにしか田舎を知らぬのでなかろうか。良いか。この時期の田は臭い。畦の雑草がガスを振り撒くのだ。うんこ以外に喩えようも無い。墨汁に酢と履き古した靴下とをぶち込んで濃縮したような汚臭が一帯を征服する。
思えばどこでだって貧乏人の生きる土地は臭いものだ。どうにか俺ごときを使ってくださる神たる企業と巡り合い上京を果たすも、ここでも泥とヘドロの匂いとが入り混じる。夜半の地下鉄駅にはいくつものゲロ溜まりがある。蛇口を捻ればもう、水が臭い。人混みにあれば人間が臭い。白い歯を覗かせ外見にばかり気を遣い、反面、ごてごてと油を塗りたくった毛髪が嫌に臭い。お為ごかしでにやにやと講釈を垂れるごみ共の全てが鼻につく。
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