【第三十一話】

 家に着くと、両親がリビングでくつろいでいた。


「あら、おかえり。遅かったわね?」


「ごめん。友達と、ちょっと用事があって」


「そう。あんまり遅くならないようにね。心配になるから。ご飯できてるから、食べなさい」


 食卓には、湯気の立つ味噌汁と、冷めかけた唐揚げが並んでいた。

 テレビではニュースが流れている。


《先日、都内に住む加藤慎吾容疑者(32)の自宅から、大量の違法薬物が押収されました。警察によりますと、押収された薬物の一部は、若者の間で広がりを見せている新種の薬物とみられ、加藤容疑者が関与していたとされる“死薬師(しやくし)”と呼ばれる売人グループとの関連を調べています。警察は今後、このグループの実態解明を進める方針です》


 死薬師って、ただの噂じゃなかったんだ。

 しかも、名前じゃなくて――グループ。


 そう思ったとき、茶碗を持つ手が止まっていた。

 テレビの音だけが、静かに響いている。

 俺はしばらく、画面を見つめた。


「やっぱり悪いことをすれば、ちゃんと捕まるのよ。達希も気をつけなさいね」


「はいはい。俺は大丈夫だよ」


「はは、こいつにそんな度胸あるわけないだろ」


 両親が、いつもの調子で笑っていた。

 ……親って、こういうことばっかり言うよな。


◇ ◇ ◇


 食後に風呂を済ませ、ベッドに横になる。

 疲れているはずなのに、脳だけが冴えていた。

 考え始めると、止まらない。


 あの夜のことを――

 俺は眠るように、沈んでいった。


◇ ◇ ◇


 蒸し暑い空気の中、俺たちは階段を駆け上がっていた。

 一階から屋上へ。健人が先頭で走り、俺が続く。

 振り返ると、大迫先生、ねむ、杏樹。

 最後に、河野先生の足音が階段に響いていた。


 扉の前で健人がもたつく。

 その横で、河野先生がスマホを耳に当てている。


 次の瞬間――

 扉が開いて、優衣が落ちる。


 俺たちは咄嗟に駆け出した。

 でも、間に合わなかった。


 あとから上がってきたみんなの顔が、順に目に入る。

 まるで、その光景だけがくっきりと焼きついているようだった。


 そのときだった。


 背中に、氷が這うような感覚が走った。

 空気が止まり、時間まで凍りついたように感じた。


 ――そこに、誰かがいる。


「ねえ、達希……どうして助けてくれなかったの?」


 耳のすぐ後ろで、ひどく静かな声がした。

 優衣の声。

 けれど、どこか違っていた。感情の抜け落ちた、空っぽの声。


「すぐそばにいたのに。見てたのに……どうして、動かなかったの?」


 息がかかるほどの距離で、囁くように語りかけてくる。

 背中がこわばる。全身が、じわじわと冷えていく。


「ねえ……ねえ……ねえ……」

「見えてたよね?」

「気づいてたよね?」

「近くにいたよね?」

「だったら……どうして?」


 その声は、怒りでも嘆きでもなかった。

 ただ、壊れた人形のように、同じ言葉を繰り返していた。


「どうして……どうして……どうして……どうして……どうして……」


 言葉が、耳の奥を打つ。

 脳が揺れる。意識が砕かれそうになる。


 怖くて、目を閉じたくなった。

 けれど、それでも――逃げちゃいけないと思った。


 言わなければならないことがある。


「――間に合わなかった。本当に……ごめん」


 声が震えた。喉の奥で、言葉にならない想いが渦を巻く。


「でも……終わらせる。絶対に、犯人を突き止めてみせる」

「優衣の無念は、俺が背負う。だから――」

「もう、苦しまなくていい。眠ってくれ」


 その瞬間、

 耳をつんざいていた声が、すっと消えた。


 静寂が戻る。

 風の音さえ、遠くなったような気がした。


 そして――


「……約束だよ」


 かすかに、優衣の声がした。

 それは、責めるでも嘆くでもない。

 ただ静かで、やさしくて。

 まるで、微笑んでいるようだった。


◇ ◇ ◇


 夢だった。

 記憶と夢とが、混ざり合ってしまったんだと思う。


 けれど、それはいつもの悪夢とは少し違っていた。


 胸の奥に、妙な静けさだけが残っていた。

 何も怖くなかった。ただ、淡々としていて――不自然なほど、静かだった。


 俺は、天井を見上げながら、ぼんやりと思う。


 ――やらなきゃいけない。

 もっと、あの場所の真実に近づかなくちゃいけない。

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