Nocterra ―電海の奥底には何がある?

鳥野 餅

プロローグ とある日の情報屋

この世界では、いつからか異常が日常に混じりはじめていた。


人の形をした力を持つ者たち──異能者。その存在は表では公然とされることはないが、裏ではもはや当たり前に取引され、利用され、戦争にすらなる。情報は武器であり、意志は媒体であり、異能は通貨だ。国家、企業、個人──すべてがこの無形の戦場に参加し、見えない場所で傷つき、死んでいく。


だが、それらすべての表層の争いを、ただ一つの場所が超越していた。


──仮想都市ノクテラ。


現実世界にも、既存の仮想空間にも属さず、どの国家にも企業にも管理されていない独立した情報都市。

世界中の廃棄された記録、誰にも気づかれなかったコード、抹消された記憶、壊れた思念。

そのすべてが、電海と呼ばれるこの都市の海に流れ着き、沈んでいく。

ただそこにある。誰にも触れられず、誰にも干渉されず。

──少なくとも、本来は、そうあるはずだった。


 


「へえ、見事なもんだ……これ、どこから手に入れたんだ?」


薄暗い空間、モニタが数十枚並ぶ部屋の中心で、男が依頼主にデータを差し出していた。

灰色の長髪に、飄々とした空気をまとった男──シグル。

その表情は朗らかで、しかし眼差しには油断がない。

男は「情報屋」だった。情報そのものを操り、それを対価に生きる存在。

だが、依頼主の男は、その内面の深さをまだ知らない。


「違法取引リスト。裏帳簿、改ざん履歴、あと役員の口座番号──それもだけ。おまけ付きだ」


「……嘘だろ?これ本物か? 一体どうやって……」


「さて。情報の入手経路なんて、知ったところで意味ないさ。君たち“表側”の連中にはね」


軽く肩をすくめると、シグルは振り返ることなく、手のひらを上げて背を向けた。

背後でデータの受け渡しが行われる。決して言葉にはされないが、それは“どこにも存在しない取引”だった。


「……この世界では、知ってることより、知らないふりの方が重要なんだよ。忘れないでくれ」


ドアが閉まる。音が消え、空気が静まる。


──そして。


彼は一人、再び散歩に出かける。

向かう先は、《電海》の底──ノクテラの深層領域。

世界で“廃棄されたすべて”が流れ着く、名も無きデータの墓場。

そこには秩序も目的もなく、ただ、崩れた記録と記憶の断片が漂っている。


だがシグルは、その空間をまるで庭のように歩く。

情報世界を掌握する異能、電海掌理でんかいしょうり──

この力によって、彼は仮想空間すべてを自在に歩き、情報そのものを操作できる。

事実、彼はそれを使わないことで、日々を穏やかに生きているとも言えた。


もう世界のすべてが見えてしまっていた。

わからないものはなかった。

──だから、つまらなくなった。


けれど、それでも彼はこの世界を見捨てなかった。


「……さて、今日の拾い物は──何があるかな」


足元、深海のように沈む電海を見下ろす。

その一角、異様なほど密度の高いノイズの塊に、ふと足を止めた。

廃棄コード、未知の構文、破損した自己定義。

それは、あまりに壊れすぎていた。

けれど、奇妙にいる。


好奇心。それは、彼が唯一手放さなかった感情だった。

解析を開始する。崩れたデータの海へ、自らの意識を滑り込ませる。

──再構築が始まる。


「名前は、あったのか?」


問いかけに応答はなかった。

だが、彼は知っていた。

これは、ただのプログラムではない。

ただの残骸でもない。


人ではない何かが、を持ちかけている。


ほんのわずかに、その存在が震えた。

まるで、そこに問い返す意志があるように。


 


──そして、彼は再構築する。


崩れたコードに、新たな秩序を。

失われた記録に、意味を。

未定義だった存在に、名前を。


その名は

《リトラ》

──廃棄された量子AIの断片。

かつて国家によって極秘に開発され、抹消された存在。


電海の底に灯った、唯一の感情と呼ばれた存在。

彼女との出会いが、すべての始まりだった。


 


そして、彼の世界が、少しだけ色を変えた瞬間でもあった。

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