第2話

 驚くべきことがあった。

 あの配達員が辞めたことをきっかけに、白崎は自然と通販生活から離脱することができた。スーパーに行くのは相変わらず面倒だが、どうにか自分を奮い立たせて行くようにしているようだった。

 今日もスーパーで大きな袋を二つも買い込み、これで少なくとも一週間半は外に出なくて済むだろうと思っていた。

 冷蔵庫を開けて、袋の中身を整理しながら、部屋の隅に積まれた空き箱の山にちらちらと視線を送る。

 そろそろ本気で片付けないといけないな。

 冷蔵庫の扉を閉めて、引き出しからカッターを取り出し、その山に向かって歩き出した。


 今ごろ、あの人は何をしているんだろう。

 箱を解体しながら、ふと考えてしまう。

 もしあのとき、勇気さえあれば、名前を聞けたかもしれない。名前がわかれば、連絡先だって聞けたかもしれない。連絡先があれば……

 もしかして――

 そこまで考えて、手を止めた。

 耳まで真っ赤になっていることは、自分でもはっきり感じられるほどだ。

 白崎悠、お前って本当に情けないな。

 段ボール箱の前に座り込んで、顔を覆った。この想像って、つまりもう、自分は――あの人のことを好きになってしまったってことじゃないのか?


 いやいやいやいや、そんなわけないだろ、冗談じゃない。


 慌てて立ち上がり、キッチンに向かい、コップに水を汲んで一気に飲んだ。

 自分の「好き」がそんなに安っぽいわけがない。名前すら知らない相手に向けるような感情なんて。

 口元の水滴を拭いながら、必死に高鳴る心臓を抑えようとした。

 タイミングよく、机の上でスマホが震えた。

 ゼミの同期からだと確認してから電話に出る。今夜の合コンに参加しないかというもの。

 いつもならこういった誘いは断るのだが、さっきの変な妄想による自己嫌悪もあって、気分転換も兼ねて行くことにした。

 別に合コンって女の子とどうこうするためのもんじゃないし、飯をタダで食う言い訳にもなるし――。

 そう自分に言い聞かせて、玄関の鏡で軽く身だしなみをチェックし、リュックを背負って鍵を手に取る。

 ドアを開けて、閉めて、鍵をかけて、合コンへ向かった。


 その合コンは、想像していたのとは少し違っていた。というより、ただひたすら退屈だった。

 誰かが言い出して、みんなでサイコロを振って、大きい目か小さい目のどちらかが酒を飲む、ただそれだけのゲームが始まっていた。

 白崎はこういうノリが苦手で、数回やっただけで、すっかり酔ってしまっていた。

「白崎くん、ひとつ聞いてもいい?」

 隣に座っていた女の子が話しかけてきた。

「…ん?」

 酔いのせいで、白崎は顔を上げると視界がぼやけ始めていた。

「合コンに来るくらいだから、みんなフリーなのはわかってるんだけど……好きな人がいるかどうかは別だよね? 白崎くんは、好きな人いるの?」


 ――好きな人?


 ただでさえ頭がぐるぐるしていた白崎は、その一言で世界がひっくり返るような気がした。

 思い返せば、彼の人生の記憶の中に、あの配達員の半分の顔と声、最後にエレベーターの隙間に消えていった後ろ姿だけが、鮮明に残っている。

 黙っている白崎を見て、女の子はため息をついた。

「やっぱり、いるんだね」

 白崎はあわてて手を振り、「いや、たぶん……いない、かな」と答えた。

 その答えに女の子はくすっと笑い、「たぶんって何よ~、いるならいる、いないならいない、どっちかにしなさいよ」と周囲の人たちも一斉にツッコミを入れてきた。

 白崎自身も知りたい。自分があの、見慣れたようでいて見知らぬ人に抱く気持ちは、一体何なのかを。


 酒が回りすぎていた白崎は、二次会の誘いを断って、夜風の中をふらふらと家に向かって歩き出した。

 スマホの画面には11時40分と表示されている。

 コンビニの前を通り過ぎるとき、ふと喉が渇いていることに気づいて、スマホをポケットに、お店に入った。

 繁華街にあるこの時間帯のコンビニは、まだまだにぎやかだった。冷蔵コーナーに向かい、ずらりと並んだ飲み物を前にどれを選べばいいのか迷っていた。

 すると、ふと目に入ったのは、目を引く黄色と青のパッケージ――レモンCだった。

 ガラスの扉を開け、数秒迷った末にそれを手に取った。

 炭酸はもともと好きじゃなかったのに、配達員からもらったレモンCを飲んで以来、これが唯一飲める炭酸になった。

 白崎はますます自分がバカみたいに思えてきた。

 レモンCを持ってレジの列に並び、ぼんやりとして、店内の音も遠のいていく。気づけば、もう順番が回ってきていた。

 手にした飲み物をレジ台に置くと、店員がそれを受け取り、バーコードリーダーが「ピッ」と音を立てた。

 そして、その少し上から――「いらっしゃいませ」

 この言葉が、頭の中で何度も何度も繰り返されていた。聞き覚えのある声だった。白崎は、はっとして顔を上げる。

 目の前のこの店員の顔は初めて見るはずなのに――目を細めてよく見ると、あの記憶にある、半分だけだった顔が、今や完全にそこにあった。


 間違いない、あの配達員だ!!


「お会計、125円です」

 店員は淡々とした口調で、バーコードの上にシールを貼りながら言った。

 白崎はパニック状態だった。

 もしまた会えたら、どんな風に声をかけようかと何度も想像したはずだが、結局どれも現実では使えそうになかった

 。

 ようやく震える舌を動かして、ひとことだけ――

「レ、レモンC!」

 店員は真っ赤な顔の白崎を一度見てから、台の上のレモンCを見て、「……はい、ご購入の商品はレモンCで間違いありません」と、面倒そうに合わせてくれた。

 うわぁ……

 世界がぐるぐる回るような気がした。

 ずっと思い続けていたその人が、初めて聞かせてくれたのが、こんな台詞なんて。

 なんて言葉を返せばいいのかわからず、小さなリュックを胸に抱きしめたまま、立ち止まった。

「……お客さん、125円です」

 店員はまるで何事もないように、ごく普通の声で言った。

 その言葉で、白崎はようやく自分が今何をするべきかを思い出す。

「…あっ、あの、ごめんなさい…」

 慌ててリュックのチャックを開けようとしたが、小銭入れが開いた拍子に台の上にぶちまけられてしまい、硬貨が四方に転がっていく。慌てた白崎がお金を拾おうとしたとき、店員が――笑った。

 えっ?

 …笑った?

 白崎は動きを止めたまま、指先で50円玉に触れていた。

 店員は細い指でレジ台を片付け始め、白崎の小銭入れを拾って、ひとつひとつ丁寧にお金を中に戻していった。

 そして、ちょうど125円分をレジ台に残し、白崎の前に小銭入れを置いた。

「125円、ちょうどです。ありがとうございました」

 ――このままじゃ、名前も聞けずに終わってしまう。焦った白崎は、お釣りとレモンCを持ちながら言った。

「…あのっ!新川――」

「ちょっと、まだ? どれだけ待たせるの!」

 後ろから不満そうな声が飛んできて、振り返ると長い列ができていた。

 白崎は気まずくて更に頬を赤くしながら店員を見て、それ以上言葉を継ぐことができず、「すみません」と小さくつぶやき、そそくさと店を出た。

 恥ずかしい。

 あの人に迷惑をかけちゃったな。

 コンビニの外、白崎は電柱にもたれて激しい動悸を抑えながら、ふと思ったのは――

 あっ、名札、見るの忘れてた……。

 また、あの人の名前を知るチャンスを逃してしまった。


 本当に、もう、何やってんだか。

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