第3話
反抗期とスタジオ
スペシャリストかゼネラリストか。
そんな命題が出てくる業界は数あれど、臨床検査技師の選択肢はほぼ環境に依存する。
まずは勤め先。それから部署。
前述の問いに対し、雛自身は完全に後者だと答える。何でもやるし、出来ないことでも(経験させてもらえるなら)挑戦する。フットワークと使い勝手の良さを望まれて雇われているので、渡り歩いて来た部署は様々だ。
現在所属している部署では検体検査をやっている。大型の分析機を動かし、データをチェックして転送し、必要なら再検査する。大まかにはそんな流れ。
その日は朝からメインの分析機がトラブルを起こし、雛はサブ機を動かして外来対応しなければならなかった。機械やシステムに何かあると外来を巻き込んで大ごとになる。しかしなんだかんだで、午後二時を回った頃には緊急検査だけは落ち着いたので、雛は遅い昼休憩を取らせてもらった。
臨時職員用の休憩場所は、正規のものもあるがとても狭い。実際に使われているのは、院内のあちこちで半ば自然発生的に出来たスペースばかりだ。
ロッカールーム、談話室、昔の喫煙室を改装した謎部屋。そんな場所にいつの間にか椅子とテーブルが持ち込まれ、人が集まるようになった。
偉い人に怒られたら移動しなければならないが、偉い人が来るような場所でもない。
「あれ? 美里さん?」
あまりにもタイミングが良くて、雛は素っ頓狂な声を上げた。談話室の隅にある休憩スペースに、リハビリ科の点鬼簿美里がいたのだ。了のご母堂である。
「その声は雛ちゃん? 久しぶりねえ!今からお昼なの?」
「そうなの。美里さんお茶淹れるけどいる?」
「コーヒー買って来たからいいわ」
「えー、ほんとに久しぶり。私、了に会ったんだよ」
雛は自分用にお茶を淹れながらそう報告した。
売店で買って来たのはミニ海苔弁当と大学芋。変な取り合わせだが、時間も時間なのでこれしか残っていなかったのだ。おそらく美里の嗅覚には妙なメニューなのがバレている。
「あの子最近仕事が休みみたいで、神出鬼没なのよ。雛ちゃん、どこで会ったの?」
「うちの近くで。偶然なんだけど……でも待ち合わせて」
「偶然待ち合わせるってどういう状況?」
「色々あったんだよ。ねえ、了の俳優のお仕事順調みたいだよね。私全然知らなかったよ。全っ然知らなかった」
雛は本当に全然知らなかったので、つい主張に力が入った。ごく狭い人間関係の中で生きてきたのに、その中でさえ隔世の感に襲われるなど、びっくりを通り越して危機感を覚えてしまったからだ。
「まあねえ。あの子あんまり連絡して来ないし、会っても自分のことなんて喋らないから。私だってろくに知らないのよ?」
美里は笑いながら手探りでコーヒー缶を開け、一口飲んだ。雛も海苔弁に箸をつけた。
「了ってテレビにも出てるんだって?」
「そうらしいの。ピンと来ないわよねえ。私は見えないし、雛ちゃんだってテレビ観ないじゃない?」
「うん……でもこれからは観るよ。うちの櫂はけっこう観てるんだって。了ったら、私にも教えてくれたってバチは当たらないだろうにさ」
「照れ臭かったのよ。でもあの子が大学辞めてまで好きなことやろうとするなんて、母親としてはすごく嬉しかったのよねえ。ほら、了って何をやってもどこかつまらなさそうだったじゃない? 」
「なんでもよく出来るからってのもあったのかもねえ。出来過ぎて心配するのも変な話だけど」
「───雛ちゃん、もしかして了に会ったのすごくすごく久し振り?」
「うん。実際は四年振りみたいなんだけど、肌感としては十一年振り。あ、でも、四年前のことも少し思い出したんだよ。言われてみればって感じだけど」
了が大学を辞めると言い出した頃、会って話したのは確かなのだ。そして雛の記憶では、二十歳の了に向かって、好きなことが見つかって良かったねえ、的なことを言ったような……言わなかったような。
「───多分私も、美里さんと同じように嬉しかったんだよね。了のこと。それであいつに好きなことやってみなよって言ったの。了が相手じゃなかったらそんな無責任なこと言えなかったと思うけど。でも人生一度切りだしなあと思って」
「雛ちゃんあなた、それじゃ幼馴染というより、ほぼ母親じゃないの……じゃあもう背水の陣だったわねえ。なおさら早く大人になりたかったんだわ、あの子」
美里は雛の記憶に新しい、見たような表情を浮かべた。先日の了のあれにそっくりだった。呆れているような、面白がってるような。
「でも了ってまだ反抗期引き摺ってるんだよ。人のことおまえ扱いするんだから」
「でも雛ちゃん、会って驚いたんでしょう」
「まあ……驚いた。育ってた」
「育ったわよねえ」
海苔弁と大学芋は全然合わないのに、しょっぱさと甘さがループして、不思議と捗る。
「なんだかちょっと寂しい感じ。幼馴染が知らないうちに大人になっちゃって。まあ、反抗期だけど」
「あの子は苦労してるところなんて、見せたがらないだろうしねえ。特に雛ちゃんには」
「どうしてよ。私そんなに薄情じゃないよ? 下積み期とかデビュー期とかリアタイしたかったし、うんと応援したかった。普通知らせてこない? 出るから観てよって」
「まあこれからは観てやってよ。せっかく再会したんだから」
「───うん、そうする」
本当にそうしようと思い、雛は食べながら了のことを検索し始めた。
「まじですか了、ウィキペディアにもいるんですけど」
「あら、ありがたいわね。さて、私もう戻らなきゃ」
「あ、それじゃリハビリまで送るよ」
「まだお弁当残ってるじゃない」
「相変わらず鋭い嗅覚……じゃあ、気をつけてね」
「はいはい。そのうち遊びにいらっしゃいね。ああ、花梨さんにも言っておいて。最近全然会えてないのよ」
「美里さん隣に住んでるじゃない」
雛の母親の名前は花梨という。刑事らしくない名だとイジられたこともあったらしいが、名前と検挙率には何の因果関係もなかったので大きなお世話だった。しかも順調に出世し、現在は警部にまでなっている。
その花梨刑事と美里はとても仲が良い。お互い信頼し合っていたから、子供を預けたり預かったり出来たのだろう。
椅子の背、机、壁……順に触れながら優雅に歩く美里を見送り、雛の昼休憩は終わった。
ピアノのことを言い損ねたが、またの機会はすぐにありそうに思えた。
†
レッスン初日は金曜日の夜に決まった。
練習スタジオが借りられたと連絡が来て、そこでやることになったのだ。雛の感覚ではそんな贅沢なと思わなくもなかったが、了にも色々都合があるのだろう。
「雛の職場から近いみたいだから、仕事終わる頃そっちに寄って、拾ってから行くわ」
「了解」
何しろ雇われた身なので、雛は言われるままに予定を入れた。金曜日。職場。拾われる。メモ良し。
「───あれ? 拾われる? 車ってこと?」
ふと漏れた私の疑問に、すぐには答えなかった了が、平坦な声で言った。
「まあ、そのくらい警戒される方が趣き深いな」
「そうなの?」
了の声はいつも通り冷静で、素っ気ないのに、どこか含みがあった。
まあ、ピアノさえ確保出来たのなら、あとは瑣末なことだと思い雛はそのまま電話を切った。
てっきり雛のピアノでレッスンをすると思い込んでいたのだが、了は「また今度な」と言って取り合わなかった。よく分からないが、スタジオを借りるなんてさすが発想からして芸能人だ。
(それにしても、バイト代が入ったら、また引っ越しが遠退きそうだな)
アジアンタムの液体肥料を希釈しながら、雛はそんなことを考えた。さっさと引っ越せと言いながら、こんな助け船を出すなんて、了は何を考えているのだろうとも思った。
†
金曜日は定時で上がることが出来た。
『着いた。南側の駐車場にいる。ヴェゼル分かる?』
了からのLINEを読み、雛は車の形を思い浮かべてみた。
ヴェゼル、ヴェゼル。ぱっと見て分かる気はしないが、多分コンパクトSUVというやつだろう。
色は? と返信すると、『燻んだカーキ』と返って来て、どんなのだろうと考えていたら『サンドカーキ』と更なる情報が来た。
駐車場に行くと、なるほどサンドカーキだった。カーキに砂を混ぜて燻した感じだ。
「お疲れ」
助手席のドアが中から押し開けられたので、素直に乗り込んだ。見ればやっぱり了で、やっぱり運転なんかしている。本当に大人になったのだ。
「迎えありがとう。車持ってたの?」
「馬乗るのに必要で、最近買った」
「馬に乗るために車に乗るなんて……ええと、おしゃれだね」
「絶対思ってねえだろ。乗馬クラブってのは大抵遠くにあるんだよ」
言われてみれば、新車の匂いがした。
余計な小物などは置いていないが、後部座席には大きな荷物がいくつかあった。
了の態度はいつも通りに見えたが、けれどほんのわずかに、アクセルを踏む足が慎重すぎるように思えたし、左手がシフトノブに添えられているのも、癖というより落ち着かなさのように感じられた。
───まさかね。緊張するような子じゃないし。
雛はふと浮かんだ考えを慌てて打ち消した。
「拾われる、って言い方したけど、ほんとに拾われるんだね」
思ったことをそのまま言葉を出してみると、了は少し口元だけで笑った。やはり雛はまだいきなり大人になって現れた了に慣れることができない。
「あれ? 後ろにギターがあるよ」
「ああ、預かり物。先輩の」
「事務所ってミュージシャンの人もいるの?」
「いない。うちの事務所あるあるなんだけど、やけにバンドマンの役やる奴が多くて、よく勢いでバンドが結成される」
「役か。了もやった?」
「やった。俺なんか三回もやった。やるたびに違う楽器持たされてよ」
「カッコいい役?」
「三人ともクズ男だった」
「……うそ、絶対観たい。サブスク入ろ」
了が手配したレンタルスタジオは、オフィスビルの中にあった。受付は価格設定が高めのカラオケのようだった。とても静かだという点を除けばだが。
「何これ、素敵が過ぎる……」
部屋に入った途端、雛は思わず声を漏らしてしまった。グランドピアノの色がダークマホガニーで、恥ずかしながらテンションが上がってしまう。大きな時計に吸音パネル。真横に設置された鏡。
どれもピアノの弾くための設備なのに、無機質ではなく細部がいちいち凝っているのだ。
「ホラ了、座って! 椅子の調節してあげる! ちょっと、どうして笑うの?」
「いや、思いの外喜んでるから」
「だって見てよこの椅子も……了? なんか髪が短かくない?」
「いや、会って何分経つよ……びっくりしたわ」
「車の中暗かったし……ひょっとして、櫂?」
美容には疎いし、さほど立派な審美眼も持ち合わせていない雛だが、弟の仕事は何となく分かるのだ。
「そう。会いに行ったら切られた」
「あの子ったら何してくれんのよ。了の仕事知ってるくせに自由過ぎない?」
「別にいいんだけど。どっかで一度切ろうと思ってたし。当分休みだからまた伸びるだろ」
「だって、高校生みたいになっちゃったよ?」
「……だったら高校生役やるから」
「この前までは気難しい芸術家風ジゴロだったのに」
「どんな奴だよそれ」
雛はキャスティングディレクターの気持ちになり、すっかり可愛くなってしまった了を眺めた。演技のことは分からないが、了のこういうナイーブそうな雰囲気は、魅力的だと思う。
「椅子ってこのくらい?」
「あ、ペダルに足かけて。うん。それで良さそう」
「背もたれある椅子じゃないんだな」
「トムソン椅子ね。私はあれの方が弾きやすいけど、この椅子も素敵だよ。脚にほら、彫刻みたいなのが」
「今時はこのタイプなのか?」
「どっちが主流なんだろうね。ベンチタイプはドレスのとき裾の捌きが楽だったりするけど。ところでどう? 家で弾いてみた?」
了は楽譜のコピーを取り出すと、右手だけでメロディを弾いた。問題なくつるりと弾いている印象だ。
「やっぱり思ったより弾けるんじゃん……両手でもやってみた?」
「一応……で、一箇所腑に落ちなかったんだけど」
両手で弾く音を聴いて雛は感心した。右手だけのときも思ったが、拍子感が抜群に良い。
「グルーヴ!……って感じ」
「何だそれ……ここだよここ」
急に止まって顎で譜面を示すので、雛は指を動かしながらそこを見直した。
「えーと? あ、ごめんこれ採譜ミスだわ。休符ひとつ抜けてた」
「ああ、それなら分かる」
休符を書き足す間に、了はまた演奏を再開し、予め言っておいたところまで弾き切った。
「宿題きっちりやるタイプだね。つまんないくらい弾けるじゃん」
「この曲序盤の方が簡単だろ」
「実はそう。でもやっぱり凄いよ」
「……もうひとつ訊いていいか」
「どうぞ。私先生でした」
「ここ───好きで何回も聴くところ。おまえの弾き方がいいんだけど、なんか上手こといかない」
「いや、別に同じように弾かなくても」
「先生なんだろ」
「……ええと、どんなんだっけ? ちょっともう一回弾いてみて?」
何回も聴いたなどと面と向かって言われると、さすがに照れてしまう。相手には褒めている自覚も無さそうなのに。
了は数小節手前から弾いて、ここだよこことばかりにガンを飛ばして来た。人のことを照れさせておいて態度が悪い。
「どうしよう。言語化……言語化が待たれている」
「待ってる。頼む。頑張れ。取っ掛かりをくれ」
「前との繋がりと……あと何だろ。この辺、了の弾き方って息止めてる感じがする」
「息か。あんまり気にしてなかった」
「でもよく分かんなくなってきた……難曲だね」
「おまえが言うなよ」
譜面を指で辿り、自分自身の演奏を思い出してみる。
センスがありそうな了には真似などもったいない気もしたが、彼の思い通りに弾くヒントはあげたい。
「ちょっと私が弾いてみようか」
「頼むわ。そういやこの部屋、他に椅子ないんだな」
「いいよ、私が立ったまま右手だけ弾くから」
「いや、俺が立つって」
ちょっとした譲り合いが続いた末、タイミングを逃した雛は、ピアノ椅子の右端──了のすぐ隣にちょこんと腰を下ろしてしまった。
「……実はこれ、一人用なんだよね、この椅子」
「だろうな。並んでみて分かったわ」
椅子は背もたれのないベンチタイプで、黒い塗装の脚には彫刻のような装飾が施されている。大人二人が並んで座るにはやや心許なく、雛の左肩と了の右肩が自然と重なってしまう。
了が一度立ち上がり、雛が弾きやすいように位置を調整しようとしたが、雛が鍵盤に指を置くと、了も再び腰を下ろした。今度は少し斜めに、雛の腕の動きを妨げないよう肩をずらして。
「子ども同士だったらこうして連弾したりするけど……あ、手が届かない」
低音側に手が伸びずに音が飛ぶと、了が笑った。
「ちゃんと聴きなさい。笑ってないで低いとこ弾いてよ」
「脇腹がこちょばいんだよ。肘が当たる」
「なんか連弾みたいで楽しいねえ」
「多分こういうのじゃねえだろ、連弾は」
「了───教えるなんて言って、日本語下手でごめん」
「問題ない。汲み取りかけてる」
久しぶりに楽しかった。
けど、楽しければ楽しい程、そのことがだんだん切なくもなった。
───雛の弾き方がいい。
環も同じようなことを言ってくれた。
気のせいじゃない。やっぱり了は環を思い出させる。
悲しみは飼い慣らせた。だからもう滅多に泣かなくなったのに、苦しさだけは増しているようだ。
曲は了が言っていた箇所を通り過ぎたが、それでも左手の助手は参加してくれている。
単なる戯れなのに、二人で同じ譜面追っていると苦しいのが少し和らぐような気がした。
「さっきから全然分からん。おまえ何食った?」
「え?」
「果物の香りがすんだけど……梨?」
雛が思わず左を見上げると、額と了の鼻先が数センチの距離にあって、もの凄く驚いてしまった。
「───おい」
雛が反射的に仰け反ると、了が背中を支えてくれた。そのまま両手で腰を引き寄せられたので変な声が出てしまった。
「うあ、何この格好……放して?」
「放すとおまえがケツから落ちるんだよ」
「あ、そうか」
床に足をつくと了が手を離してくれて、問題なく立ち上がることが出来た。
「やっぱり二人で座る椅子じゃねえな」
了はまったくのマイペースで、当たり前のことを感心したように言う。雛は思わずクリアファイルを手に取り、了の肩をペコペコと突いた。
「何しやがる」
「先生をからかうからでしょ! 人の口臭なんか嗅がないの! 」
「口臭じゃねえだろ、梨だろ」
「違う、ライチ! 」
「ライチか」
雛はもう、自分が何が原因で赤面しているのか分からなかった。
「ライチかじゃないでしょ……辱められた」
「人聞き悪いな。息がどうのって言ってたから手本にしようとしたんだよ」
「嗅がなくてもいいじゃない」
「不可抗力だろ、あれだけ近かったんだから。でも近いとよく分かった。比べると俺、相当力んでたな。で……雛の呼吸は何気に緻密にコントロールされてるっぽいから参考にする」
その言葉に雛は、了のいる世界を垣間見たような気がした。身体ひとつで何かを表現してきた人間は、身体で何かを掴もうとするのかも知れない。だからといってこの仕打ちはないと思うが。
「じゃあ、先生にごめんなさいは?」
「ええと……先生……嗅いで? ごめん 」
「うん」
「嗅いでごめんて初めて言った……」
こっちだって初めて言われたわと雛は思った。
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