第12章「響かない音、有紀の涙」
5月13日、土曜日。午後。
潮守市民ホールのリハーサル室には、管楽器と打楽器の調整音が飛び交っていた。
翌週に迫った「三校合同吹奏楽演奏会」に向けて、各校の代表部員が集まり、本番さながらの通し練習が始まっている。
有紀は、愛用のトランペットを抱えて一番前の列にいた。
「ソロ、絶対いけるって」
そう言ってくれたのは隣の先輩女子だったが、有紀の手のひらには冷たい汗がじっとりとにじんでいた。
(いつも通り。いつも通りに吹けば……)
だが、その“いつも”が、今日はなかった。
指揮の合図で全体が一斉に鳴り始め、有紀のソロパートが近づく。
口元にマウスピースを当てたとき、ほんの一瞬だけ――観客席の一角が視界に入った。
そこに、雄大の姿を見たような気がした。
心臓が跳ねる。
そして。
――音が、出なかった。
全員の音が消え、会場には静寂が落ちた。
その中で、有紀だけが、ただ一人沈黙していた。
「……もう一度、お願いします」
指揮者が柔らかく告げたが、有紀の肩は強張ったままだった。
2度目。3度目。
どうしても、出ない。
指が震えて、唇がふるえ、息が迷子になっていた。
「だ、大丈夫です……やります……」と小さく答える自分の声も、聞こえていないようだった。
リハーサルが終わったあと、有紀は楽器をケースにしまうことができなかった。
ただ、椅子に座ったまま、うつむいていた。
そこに、麻里奈が静かに近づいてくる。
「……有紀」
麻里奈は、そっと腰を下ろし、有紀の隣に座った。
無理に視線を合わせようとはせず、ただ、同じ高さに寄り添った。
「……ごめんなさい」
有紀の口から、かすれるような声がこぼれた。
「本番じゃなくてよかったって、思わないでください……。私……音楽が、好きだから……ちゃんと、届けたかったのに……」
麻里奈は、しばらく黙っていた。
そして、ふっと息をついて、こう言った。
「本番じゃなかったことよりも、今それを悔しいと思えるあなたを、私は誇りに思うよ」
「……え?」
「失敗を悔しがるって、次を見てる証拠。音を外したことよりも、自分の心の芯がちゃんとそこにあることが、ずっと大事なの」
有紀の肩がわずかに揺れた。
言葉が、心のひだに染みこんでいく。
「……でも、怖くて」
「予定通りにいかないと、不安だよね」
「……うん」
麻里奈は少しだけ笑った。
「私はね、予定通りにしか進まない本番は、誰の心も動かせないと思ってる。音楽って、もっと自由で、もっと不完全で、それでも誰かの心を震わせるものだから」
その言葉に、有紀の目が大きくなった。
「あなたが吹いた音を、誰かが待ってる。その誰かは、きっとあなたのことを、完璧じゃなくても大切に思ってくれるよ」
有紀は、唇をかみしめた。
そして、ぽろりと涙が頬を伝った。
「……そんなふうに、思ってくれる人、いるのかな」
「いるよ。ちゃんと見てる。あなたの音が届くのを、誰よりも近くで待ってる人が」
それが誰かを、麻里奈はあえて言わなかった。
けれど、有紀の胸にすぐ浮かんだのは――あの、灯台での夜だった。
マウスピースに触れたときのあたたかい眼差し。
短冊を吊るす彼の手。
不器用な言葉。
「……もう一回、練習してくる」
「うん。付き合うよ」
そのとき、ステージに再び灯がともったような気がした。
それは照明ではなく、有紀の中で再び立ち上がろうとする、音楽の光だった。
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